8/2(日)に哲学対話というワークショップを一宮市民活動支援センターにて行います。
哲学対話とは?
treasure-temper-102.notion.site
教師塾とは?
こちらのページは活動理念です。
treasure-temper-102.notion.sit
本ブログにて「教師塾」と調べて頂くか、Facebookのページもご覧頂くと、活動の雰囲気やイメージが掴みやすいかと思います。
さて、学校の先生とそうでない人との繋がりの場として、教師塾の活動を続けてきました。
そして哲学対話ワークショップに出会い、学校(職場)内外コツコツと続けています。
哲学対話のルールとして、
・何を言ってもいい・何を聞いてもいい
・聞かれても答えなくていい
・聞かれてなくても話していい
・聞いているだけでもいい
・問いかけるように心がける
・知識ではなく、(あなたの)経験に即して話す。
・話がまとまらなくても、分からなくなっても、意見が変わってもいい。
・人の意見に否定的な態度を取らない。
があります。
その中でも、・問いかけるように心がけるが最も重要で難しい部分です。
問いに焦点を絞った、以下の本の読書記録を書いています。
p.84
第1章
なぜ私たちは良い質問をするのが苦手なのか?
意見を言うことで周りから良く思われたいという欲求から生まれたポジションがある。オピニオンリーダーだ。
オピニオンリーダーとは、自分の意見を声高に主張することで、他人にも同じ考えをもつよう促す人のことである。何も考えが浮かばないときには、彼らと同じことを言えばいい。
私たちは、誰かの力を借りなければ意見が述べられなくなっているようだ。自分の
頭で考え、根拠のある深い意見を述べる方法を忘れてしまったのだろうか?
確かに、オピニオンリーダーが鋭い視点を与えてくれることもある。思考を刺徴し、物事を違った角度から見せてくれる意見も少なくない。
しかし、オピニオンリーダー同士がお互いに譲らずに意見を対立させれば、二極化のための絶好の条件が整うことになる。隅に追いやられた微妙なニュアンスの違いは、意気消沈して物陰に隠れてしまう。
このような既成の意見のぶつけ合いは、私たちを怠惰にする。何もせず、どちらか好みのほうを選べばいいからだ。そして、別の言葉の達人が反対意見を弁舌巧みに表現すると、簡単に寝返る。
私たちは新しいジャケットを選ぶように、さまざまな意見を試着して、着心地を確かめる。そこには自分の意見や考えが少しばかりは含まれているかもしれないが、ほとんどは代わりに考えることをしてくれた誰かの意見の受け売りだ。
意見が公の場に発表されるスピードが速くなった今日、私たちは自らの考えを整理するための余裕を失っている。紅茶を淹れているあいだに、まったく新しい意見が飛び込んでくる。
オピニオンリーダーが何事に対してもすぐに見解を喧伝するのと同じくらい必要なのは、「わかりません」と言い、よく練られた質問を考えるために静かな時間を過ごせる能力かもしれない。
「クエスチョンメーカー」というまったく新しいポジションを導入するときが来たのかもしれない。自分がまだ知らないことを進んで認め、答えをひねり出すことよりも、思考を深めるための質問をすることに重きを置く人たちだ。
クエスチョンメーカーは、人々に冷静な熟考と省察を促す。意見を示すのではなく、探求心をもって問題を探っていく。相手に考えさせ、対話を促すような質間を投げかける。思考を深め、明確にし、新たな視点を獲うような質問だ。
哲学者が、その役割をはたすこともある。オランダでは2011年以来、哲学界における桂冠詩人〔訳注:優れた時人に授与される称号]に相当する、桂冠思想家という称号がある。この思想家には、国民に鋭い質問を投げかけ、新しい考え方を示すことで、目まぐるしく移り変わる時事問題を大きな枠組みの中でとらえるための視点を提供することが期待されている。
だが、哲学の学位がなくても、哲学の賞を受賞していなくても、クエスチョンメーカーになれる。私の知る限り、世界は哲学者より多くのクエスチョンメーカーを必要としている。
学校では、オピニオンリーダーにはスポットライトが当たりやすいように思う。授業を中心として、人の前で話す場面が多く、1対多数で話し情報を伝達する方法に頼りすぎている面もある。
授業では本来、教科書の内容から些細な疑問を広げていくと、無限に知識を得ることができる。しかし、多くの授業はパッケージ化された知識の伝達時間であることが多い。なので、そこで生徒は教員に疑問を投げると授業が止まってしまう。職員会議も同様に、根本的な疑問を投げかけようものなら会議が止まってしまい、煙たがられる。
物事を根本から考え直し、その授業や行事や講和等の目的を問い直せば、学校が社会の変化速度からズレることも減るだろう。授業では生徒一人一人が違うポイントで疑問を持ち、その疑問から、自分用にカスタマイズした情報を吸収し編集する時間も必要だろう。
学校現場では1側面に光を当てて、声高らかに納得感のある演説をする能力も大切だが、一人一人唯一無二の言葉にならなら疑問を共に創出したり、現状何年も続いている誰のためかも不確定な時間を是正するために、人にも物事にも多角的に問えることが重要だ。
教師塾における哲学対話では、皆さんがオピニオンリーダであり、クエスチョンリーダーであり、聴衆であることができる。皆さんの生きてきた過程が違う多様な立場の人が集まれば、価値観も、紡ぐ言葉もまるで違う。Aさんの当たり前はBさんの価値観をぶっ壊すかもしれないし、誰かの問いが誰かの課題を一瞬で解かしてしまうかもしれない。上手に演説しなくとも、クリティカルに問う能力がなくとも、誰かの人生に影響を与えてしまうインパクトを与える可能性がある場が哲学対話なのではないかと思う。