gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

子どもに自分を映し出す

1歳になる息子がいる。

最近はお腹が空いているのか、おむつなのか、口が乾いたのか、眠たいのかが少しずつわかるようになってきた。(気がする。)

我が子を見るのは私かパートナーしかいないから、我が子がどう感じているのかを汲み取ろうとするのも最大で2人だ。

共に過ごす時間の多いパートナーはこの感覚が私の何倍も鋭い。

鋭いけれども、検討が外れる時もある。私はパートナーほどわかっていないが、たまに求めていることの予想があたることがある。(気がしている。笑)

それは観察と、仮定の繰り返しを続けているから。

しかし、子どもの状況を全て把握できるわけもなく、予想が外れることも。

何を求め泣いているか分からないのは多々ある。

観察と仮定を繰り返すとふと、子どもに自分の感覚を映し出していることに気づく。

「自分ならこう感じるけどなーー」

という、自分の中の快不快の基準で考えてしまう。

どれだけ子供目線になっても子どもにはなりきれない。

それは大人子ども問わず、同化することはできない。

仕方がないが、1人で子どもを見るときに、一歩引いて分析はできない。

自らの感覚を子どもに映し出しているかどうかの判断を1人ではできない。

思い通りにならない時こそわかった気になっている。

言ってもらったり、問うて癖を教えてもらわないと気づかない。

子どもを1人の人間として、観察し、尊重するのは1人では難しい。