2月はこちらの本を読んだ。
この本の著者は平井雷太さんだ。
開発者平井雷太について|どの子にも学力がつく らくだメソッド
私が取り組んでいる「らくだメソッド」の開発者で、東京の本部教室で「すくーるらくだ」を主宰している方です。
平井さんが塾を運営し、らくだメソッドを用いて教育と関わりながら書き続けた文章が教育エッセイという形でまとまっています。
らくだの第一歩・・・・・・・生きるとは、生かされること
らくだの第二歩・・・・・・・教えるとは、教えられること
らくだの第三歩・・・・・・・考えるとは、考えさせられること
らくだの第四歩・・・・・・・書くとは、書かされること
の4章で構成されています。
目次やタイトルを読んだときには、内容が想像できませんでしたが、
らくだメソッド(自分)と向き合い、ブログを書いていることもあってか、
読み進める中で、各章の言葉の意味がしみてくるような感覚がありました。
先ほどのも述べましたが、
らくだメソッドをやり(続け)、
誰かと関わり(続け)、
考え(続け)、
書いて(書き続けて)みることで、
自分では言葉にできなかったことが、
言葉になっているような印象を受けました。
らくだメソッドがどんなものかを書き現れているのではと感じる部分を引用してみます。
らくだの一歩
生きるとは、生かされること
愛するとは
中略
教育しようとすることで子どもも傷つき、私も傷つき、しかし、受験や補習塾で収入を得ることをせず、しかも教育と共存しながら生きる道を考えたとき、それがらくだになった。
太字の部分は、胸に突き刺さる一文でした。
大人と大人、大人の子どもの間に、対話なく、同意がない。
大人も子どもも自分と向き合うことなく(誰かがが鏡になることなく)、
大人が言ったことに対して子どもは思考しにくく、
(大人は思考せず、子どもに思考させず)時間が流れていく。
基準が大人にあり(あるように見え)、
子どもにない。(成長したい方向も度合いも子どもが決めない。)
・・・
挙げればキリなく続くこれらの痛みを一文から感じました。
ただ、平井さんは学校教育の否定はしていません。
学校がどんな場所かを正しく認識し、そこから何を抽出するのか。
何と向き合うのにも認識と事実を分ける。
学校も例外なく何かを抽出することはできるでしょう。
続く