教員という仕事柄か、職場にいる皆(学習者が中心)に関心を向けることを大切にしている。
(今は少し寂しい。)
私は他者に関心を向け続けることは簡単でないと感じていた。
それがなぜか。書いてみようと思う。
関心の対象は、
自己への関心、他者への関心、世界への関心があると思う。
生まれてまもない時は、自分を自分とも認識していない。
最初の他者は母だろうか。
目が見えるようになると世界を世界と認識せず、母以外のものにも関心が向く。
自己を自己だと認識する。(物心がつくというやつだろうか。)
家から出て遊び、学校にいけば色んな他者がいることに気づく。
色んな言葉を学び、世界・社会・集団という見えない対象にも出合うことになる。
他者と関わり、世界の中にいながら、世界を感じることによって自分の存在もよりはっきりしていく。
自分の中に呼び起こされる説明のつかない何かにたくさん出会う。
関心が自分の中に向いているときには、他者や世界への関心はもちにくいと思う。
しかし、自分の中にある何かを理解しようとするには、他者や世界(学問)に関心をむける必要がある。自分のことを説明するにはこれまでそれに出会って向き合ってきた人たちが残したものに触れるしかないからだ。
(自分の中に湧き出てくるものを全て説明ができなくてもいいし、説明出来ないものの方が圧倒的に多いはずだ。)
自分の中に閉じこもっていても、自分のことはわかるようにならない。
だからと言って、
そのままの自分と向き合わないと、自分の中にある言葉にできないものにも出会えない。
自分と向き合い、未知の自分と遭遇しては、他者や世界(学問)に関心を向けて自分を説明できるようになっていく。
このバランスが大事なんだろうと思う。
自分の中に立ち現れたものを異物とせず、まず自分自身で受け止めてみる。
今までの人たちが全く遭遇したことのないものが自分の中に生まれることもあるかもしれないけど、まずはこれまでの人が残したもの・事の中にヒントがないか探してみるといい。
自分を覗いては、周りに関心を向け、自分を広げる。
これを繰り返すことが「学ぶ」ということかもしれない。
最初の話に戻ると、
他者へ、世界(学問)へ関心が向かないのは、
自分へ関心が向き続いているからかと。
自分の中にある言葉にならない何かを異物として見て、確実に視界には入っているけど、見て見ぬふりをしているから。
これでは外に関心が向かない。
学びたいと思えば、自分をそのままみること。
それがスタートだと思う。