勉強してる?
と問われて、
「しています!」
と答える子も、
「していません。」
と答える子も少ないだろう。(いるかもしれないど。)
この質問は答えずらい。
”勉強している”の基準は他者に設定されない限り全員違う。
そして、この基準は学習者本人が決めることが望ましい。
学習に対する基準を決める(自由の行使)ことで、
その後の結果に責任が持てるからだ。
それなら、
勉強してる?
と問わず、まずは
”勉強している”
という基準を一緒に作ることだ。
(いつやるか・どうやるか・誰とやるかなどをなんでも決めてもらう。決めたならそれを守れたかどうかを確認してあげて、決めてもできなかったのなら、何度も決めてもらってチャレンジしてもらえばいい。)
この時に重要な事として、
色々な問いを出す時に、
”勉強をしない”
という選択ができる形で問わないことだ。
「勉強してる?」
と聞いて、
「勉強していません。」
と返され、
「勉強する気あるの?」とか「勉強したいの?」
と問うのはイマイチだろう。
「する気ないです。」、「しないです。」
と言われたらそこで終わりだ。
(そもそもお節介だから、答える気にもならない。)
答えさせておいて、
「勉強する気がないとは何事だー!」
と言ってしまっては、とうとう会話にすらならない。
問うということは、
当事者が選ぶ(自由の行使)ことに重要さがある。
学習をすることは大前提だ。
人は適切に自分を自分で操作することができれば、自然と学ぶことができる。
その自然と学ぶことのできる環境や条件は人によって全員違う。
であれば、問うことは、その学習者が自然に学んでいける環境や条件を共に模索していくのに使われなければならない。
そして、学習者と関わるものが、次第に学習者と距離をとり、学習者が1人でに学んでいけるよう見守っていくことだろう。
おわり