gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

最後の問 part4

part1の記事よりこのシリーズの説明を。

 

3年間共に学んできた、担当2クラスの最期のテストにて“最後の問”なるものを出してみた。

問いの内容は、

”これまでの授業と日常生活の中から、西尾が伝えたかったことは何だろう?また、授業や日常生活の中で感じたことや学んだことがあったら書いてみてください。”

というものにしてみた。

テストの時間に書いてもらったものなので、時間のある人が簡単に書いてくれればいいなぁと思ったのですが、かなりの数が集まったので、このコメントから色々と記事を書いてみる。(ブログ掲載許可取得済み)


以下はpart4の内容

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自己学習能力を付けさす。

学ぶ中での疑問を自分の中で問い詰める。

・ 〜付けさす。

という表現について。

この学年の子たちは3年間を見据え、

2年生から徐々に自己学習の時間を増やしていき、私は学習の仕方のサポートに回りました。

しかし、学習は学校の授業でするもの(やらされるもの)という思い込みを取り去りきれない子もいました。

私は極端に言えば、学校の授業では学習を行わなくても、他の時間で一人になった時にきっちりできることの方が大切だと考えています。(他の生徒を邪魔するのはアウト。)

 

しかし、

・学校には来なければいけないもの

・授業は受けなければいけないもの

という縛りがある以上、授業は受け身になりやすいです。

(ホントはそんなことないんだけど・・・)

 

知識を50分間止めどなく流れてくる授業は、

知識を受け取り続けることを(先生にその気がなくても)強要して・されてしまう側面があります。

この文章を書いた子の言葉を借りるなら、

自己学習能力を高めるための授業も、

私が自由に学習を構築することを強要している側面があります。

もちろん、どう学習を進めるか?何がどうなったら学習したことになるのか?評価はどうしてもらうのか?などはオーダーメードに対応してきたつもりです。

私の授業のシステムと対応方法も、”やらされ感”への限界はあるでしょう。

 

・疑問を問い詰める。

学びの根源です。知りたいと感じたことを知っていくこと。これが身の回りになれば、私は必要ないなぁとも思います。

もちろん、問い詰め方は伝えられます。情報化社会においての、情報編集能力は来季の授業テーマになると考えています。

私を先生にしてくれたみんなを送り出しました。

本日は卒業式でした。3年の担任としての記事を書いてみます。

3年間を通して、私が彼らと関わるときのテーマは、「自立」でした。

私の考える「自立」は3年間、彼らと関わるうちに変化していきました。

私は当初、自分でできる事を増やしていくことが自立であると考えていました。

自分でやれることをどんどん増やす。これ自体は悪いことではない。

それが、

”自分ですべてのことをやりきることがいいこと”

まで行き過ぎるとバランスがいまいち。

自分が苦手で誰かが得意なことは誰かにやってもらえばいいし、

やってもらって、誰かがその人の得意を私のために活用できて、その人が力を発揮できたことに嬉しさ・楽しさがあればお互いに生かし合っていることになる。

それは逆もある。

自分の力を誰かのためにスッと使えて、そこに嬉しさ・楽しさがあれば言うことなしだ。

今は自立についてこんなふうに思っている。

gt-24o.hatenablog.jp

卒業証書をクラスで渡し終えて、少し話そうとした。

正直、今日までの日常で伝えたいことは伝えきった。

だから、そんなに話すこともないんだよ。

強いて言うなら、自立の意味を教えてくれてありがとうと伝えようかと思っていた。

けど、こんなプランは全然崩れて、

二言目くらいから涙が出てきてしまった。

なんで涙が出たのか、今でもわからない。笑

「先生どうせ泣いちゃうんでしょ!!」

と少し前に言われていて、

少しもそんな気はしていなかったけども、

グダグダに泣いていた。笑

その時にはみんな笑っていて、自分も泣きながら笑っていた。

みんなには感謝だ。

 

以下は2年前と1年前の記事です。よかったら。

gt-24o.hatenablog.jp

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部通信 part24

[理由]

バレーボールがしたい。

仲間と思える部員と共に日々を過ごしたい。

誰かの力になりたい。

 

部に所属し活動する理由はみんな違って良いし、難しくなくていい。

部活が行かなければならないものだと思い込んでいたとして、

こうやって選択肢ができたとき、理由がなくなってしまうこともあるだろうし、そこから理由を探すことだって出来る。全ては自分次第。

思い描く部活へ参加する理由が叶わなかったり、目的が自分で見つけられなければ、部活動を続けないという選択肢も当然ありえる。

 

「試合に出られないのに部活に行ってもしょうがない。」

と、その人が思えばそれがその人の正解。

「試合に出られなくてもチームに貢献したい。」

と、その人が思えばそれがその人の正解。

家でYouTubeみたり、ゲームしたり、誰かと遊びに出かけたり、働くための準備をしたり。

選択肢は無限にある。

 

どんな選択肢も許されている中で参加する人には、理由があるのだろう。

理由を見出し、そこに向かっていく。

努力をし、我慢もすることもある。

そういった人間を私は心底尊敬する。

 

誰かに褒められたいからでも、

誰かに怒られるからでもなく、

純粋に君の見出した理由で活動してほしい。

 

そして、部としての目的を共有しながら、ま 毎日を楽しく、厳しく、そして楽しくやっていけてらいいと思う。

自然状態

高1

17:08

ミス:5

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「勉強は好きですか?」

と問うて、

好きが何%で、嫌いが何%になるだろう?

どんな割合が自然と言えるだろう?

(好きが50%で嫌いが50%? 100対0?)

 

どこの誰にどんな調査をするかによって結果は左右されるだろうし、

勉強という言葉に対しての意味づけが皆違う。

アンケートにするならこの内容に近い選び抜かれた100の質問を用意する必要がありそうだ。(脱線した。)

ざっくりとした何らかの調査を日本でしたとしよう。

「好き」が50%を上回ると皆は予想するだろうか?

何となく、、、嫌いは人が多そうな気はしないだろうか?

 

学ぶことは日常生活に溢れている。

机に向かわなくたって、生活していれば色んな経験があって、最適そうな選択を毎日して生きていること自体が学んでいると言ってもいい。

 

でも、「勉強」って言葉になると急に何だか、いやーなイメージがへばりついてやしないだろうか。

何でだろう。

勉強そのものじゃなくて、その環境や方法、社会における勉強の立ち位置を全て取っ払ったら、

ご飯食べるみたいに、歩くみたいに勉強ってできないかな?って考えているわけです。

勉強が大変なことで、努力の代表格にいなければ。

勉強ってできるんじゃないかって。

(この状態を、「自然状態」と勝手に呼んでいます。)

自然に勉強を、「勉強しよう!」って思わなくてもできるようになれる事が、

一番最強なんじゃないかって思う。

 

勉強ができるようにはどうしたら良いだろう?ってスタートせずに、

勉強が特別じゃないもので、生活の一部ような状態(自然状態)になるにはどうしたらいいだろう?

ってスタートしてみてもいいかもしれない。

最後の問 part3

part1の記事よりこのシリーズの説明を。

 

3年間共に学んできた、担当2クラスの最期のテストにて“最後の問”なるものを出してみた。

問いの内容は、

”これまでの授業と日常生活の中から、西尾が伝えたかったことは何だろう?また、授業や日常生活の中で感じたことや学んだことがあったら書いてみてください。”

というものにしてみた。

テストの時間に書いてもらったものなので、時間のある人が簡単に書いてくれればいいなぁと思ったのですが、かなりの数が集まったので、このコメントから色々と記事を書いてみる。(ブログ掲載許可取得済み)
以下はpart3の内容

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"哲学対話ではみんなとの”価値観”の違いについて学べた。最初は仲の良い友達とやって、正直「いつもずっといるからそんなん分かるわ」と思い込んでいたが、いざ口に出して対話すると案外みな物事に対しての考え方が違うことを実感した。改めて口に出すことの大切さを知ったし、口に出さないと分からないことだらけだった。そして何より哲学対話で学んだことは視野というか物の見方が変わったと思う。

例えば、今までの自分は「うわこの人無理だな」と竿書からその人物を否定していたのが、「じゃあなぜ私はこの人が無理なのか」ということを考えるようになった。そうなると自然にその人のことを知りたいと思うようになる。それを続けていると案外、自分と似ているところやリスペクトする部分が見えてくる。西尾先生が言っていた”人はみな先生”という言葉に納得ができた。"

 

確かに私は哲学対話には良さがあると思っているので、

私は対話の場は開きましたが、これらのことを伝えたことはありません。

授業っぽくなるのが嫌なので、いつも哲学対話はやっておしまいです。

私は哲学対話が好きで、彼はこう感じただけ。

それを差し引いても、こう思ってくれたのはうれしいです。

 彼が周りの人たちを少しずつ先生にできたように、

彼を含む、皆が私を先生にしてくれる。

感謝です。

書きながら、込みあがってくるものがありますね。