「一切は習慣的なルールの束である」
デイヴィット・ヒューム
道徳、善の価値(モラル)は、ある集団(社会)の中で、その中にいる人の認識や感覚を交換したり、すり合わせることでなんとなく見えてきて、何となくそこにある。
だから、社会ごと(会社、学校、地域、国などなど)で、モラルは違ってくる。
それによってルールも違う。
これは当然のことで、そこにあつまる人は常に違うからであり、同じ集団は二つない。
時間が経てば入れ替わりも出てくるから変化していくものであってほしい。
違う認識をもち、道徳や善の価値が違うからこそのルール。
このルールはその中にいるほとんど人が同じだけ幸せになるためのものだ。
「いたるところですべての道徳が本来そこから由来する根源が否定される。まさしく自然の道徳の承認のうちにある自然性の尊重があとかたもなく絶滅されるのである。」
フリードリッヒ・ニーチェ「権力の意思」より
その社会の中にいる人の、道徳、善の価値が反映されていなかったり、
誰かが決めた、何となく決まっている道徳や善の価値によるルールを守ることは中々難しい。
また、道徳や善を大切にすることは手段である。
その社会の中にいる人たちの幸せが目的なのに、ここが逆転していることもある。
自由こそが大切なものだという主張でなはく、
私が大切にしていることは、目の前にいる子どもたちが、自分のココロで感じたことをもとに、アタマで考えて導き出した道徳や善を押し込めて、
誰かに決められた道徳や善の価値こそが正しいのだと思い込み、慣れてしまい、思考が止まることを防ぎたいと思っている。
今の環境に適応しながらも、問題提議を忘れず、改善のためにやや前向きに、思いやりのある提案をする力を付けてほしい。
その集団で、こうだと思う、そうだとも思う。じゃあこうしちゃってもみんな大丈夫なんじゃないの?と話し合い、承認し合おうとする姿勢が大切なんじゃないかと思っている。
おわり