新任から7年在籍した学校の離任式に出席しました。
新任にしては長く在籍しました。
話そうとしていた内容は、
・最近、数人の卒業生と会ったこと
・新任1,2年の時の苦しさと卒業生が感じてる苦しさが近かったこと
・新任1,2年でやってみたいことをやることで教員、生徒を含めて多くの方に迷惑をかけたこと
・1,2年目の状況を打開すべく、本を読み、学び場を開き、ブログを書き、職場外のいろんな人に出会う機会を増やしたこと
・大きな集団の中で、自らの現状を打開する術は学びにあること
という流れでした。
サクッと話して、学習会に興味をもってくれる生徒や先生がいたらいいなあと思っていたのですが、
壇上に立ち、話し始めると20文字も話す前から涙が込み上げてしまいました。
印象にある出来事が山のように思い出されてしまったからです。不思議な感覚でした。
初めて担任をした生徒たちとの思い出や、(教員や生徒と)ぶつかったり、咎めてくれた先生との思い出でした。
特に私の行動で、たくさんの小言を言われるだろう当時の指導教官や教務主任。育児休業中に担任を代行して頂いた現学科長には頭が上がりません。
(この御三方の素敵なところは「世話をしてやった。」「俺の指導のおかげ。」という態度や感覚を全く持っていないことです。そして、今後も私はこの方々にご恩を返すことは難しいでしょう。師となる人は、私と同じかそれ以上のスピードで学ぶので、追い越せないし、恩も返せないと思うからです。だから恩師となんて言葉があるのかも知れません。)
学校というシステムも、上下下達的な学びの在り方も、立場にのる上下関係のあり方も、指導という言葉も、"やらせる"とか、"生徒を使う"とか、"いうことを聞かせる"とか、全部嫌いです。
そんな言葉をふと使ってしまいそうになる自分も嫌いになりそうな時もあります。
感動したから全て良しとする気は全くありませんが、こんなことを考えているが故に溢れてた涙だということにしても許されるでしょうか。
一般的に"学校"と一括りには言えないですが、確かに存在する"学校"での上記の価値観に嘆いているだけでなく、
授業に自らが大切だと思う学びの在り方を落とし込み学校の中でも運営できるようにできるようにする。
他人の価値観や学校全体の風潮に流されず目の前の人と関わっていくことはできます。
これらが特別なことでなく、当然であることのように私が在ることが、これから接する人たちの感覚・価値観に変容をもたらせたらと思います。