gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

自習室

gt-24o.hatenablog.jp

1学期の授業振り返りを踏まえて、2学期から自習室を開いています。

強制しない・指示しない関わりをすると決めて、声をかけています。

声をかけてみると、学習を行うことに抵抗を表す生徒はほぼいません。

いつどこでやるのかを生徒が決めているものありますが、

できるようになりたいという前に進む力は程度や方向性はあれど、誰にでも備わっているんだと感じました。

 

定期的に実施する小テストで基準点に達しなかった生徒は、再テストの日程を生徒で決め、再テストに向けて時間を見つけて勉強してくるのか、再テスト前日に学校でやるのか、その日に学校でやるのかなどを決めています。

小テストの問題は全て開示しており、ある期間中に解けるようにしさえすればできるようになります。

それは生徒も分かっているのですが、その状態に持っていけない。

「アタマでは分かっているのですが、、、」という声をよく聞きます。

この自習室では、手を動かして「アタマでは分かっているのですが、、、」という状態から、抜け出して欲しいと思っています。

自分で自分と向き合い、課題に向き合う機会を授業や自習室を通して作り出していきます。

らくだと生きています。part3

私は寺子屋中村教室へ通塾し、らくだメソッドという教材を取り組んでいる。

詳細記事がこちら。
gt-24o.hatenablog.jp

 

9月でらくだメソッドを取り組んで4年になるため、学習を通して気づいたことや生活で変化したことを書き残していく。

 

テーマ:習慣とは?

当初、寺子屋塾中村教室へ通塾するは私は何かをコツコツ続けることが苦手だった

何かをコツコツ続ける”習慣力”のようなものを身に付けたかったのもあった。

当初の私は、習慣をつける方法があると考えていたが、1日1枚のプリントに向き合っていくと、習慣を身につける方法はないと考えるようになった。

習慣は身につくものではなく、毎日続けている状態を表していると言った方がしっくりくるようになってきた。

習慣をつけようとせず、毎日やることを前提にすれば習慣となるのではないかと考えています。

もちろん、毎日続けるには頑張るだけではなく、自分とどう折り合いをつけるか、どんな環境に自分をおくかも大切になってきます。

自分の思い込みを外しつつ、新たな自分との約束を守っていくことが習慣となるのではないかと感じています。

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らくだと生きています。part2

私は寺子屋塾中村教室へ通塾し、メイン教材のらくだメソッドを毎日取り組んで、9月で4年になる。

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 ↑この記事にもあるように、

週に一度や二週間の通塾の際に、自宅での学習を振り返っての気づき、寺子屋塾でらくだ教材を終えた後の感覚を書いている。

カテゴリーはブログトップの「らくだメソッド」に分類した。

らくだメソッドの振り返り記事を書き始めたのが、2018年1月13日で2年半も経ち驚いている。

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↑の記事「らくだと生きてます。」を読み直した。

2年半前の記事に箇条書きにした、寺子屋塾中村教室・らくだメソッドと共に歩んできた中での気づいたこと、変化してきていることを今の感覚や言葉で書き直したり、新たに言葉にしていきます。

2年前に書いた内容

・やれば終わる。
→ やればやったという事実が残る。 その事柄が面倒かどうかを考える前にやりはじめることが大切。 仕事にも影響が出てきています。「淡々と丁寧に欲張らず」がポイント。 

 

今の感覚

1日1枚のプリントを行っていく学習ですから、”やれば終わります。”

大人でも1日1枚のプリントと向き合う時間が1日の中に全くないことは少ないでしょう。

しかし、私はこれができない。

「やれば終わる。」

「できるまで取り組めばできるようになる。」

当然のことを目の前にしても、私はプリントをやらない日があります。

毎日やると決めているのに、毎日やらないんです。

 

言葉にしてしまえば当たり前であるこれらのこの論理を聞くと、

「アタマでは分かっているんだけど、、、」という声が聞こえてきそうだし、私もこう言ってしまうことが多かった。(今も深いところではそう思っているのでしょう。)

「アタマでは分かっているけど、カラダ動かない。」という状態は、何も分かってはいなくて、何もやっていない状態なんです。

少しずつですが、らくだプリントを毎日取り組もうとすることで、

「アタマでは分かっているけど、カラダ動かない。」などと言わず、考えるべきでないことをアタマで考えず、すぐに行動できる状態を毎日保てるようになってきたように思えます。

しかし、未だに「毎日プリントをやっています。」ではなく、「毎日プリントに取り組んでいます。」という表現に留まっているのには、向き合いきれていない何かがあるです。今後もコツコツとやっていきます。

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このブログについて

  • ・ブログ概要

ブログ管理者プロフィールはこちらです。↓

https://www.facebook.com/ryo.nishio.90

教員をしながら、「教師塾」という学習・交流団体を主宰・運営しています。

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職場や教師塾での活動記録や、日々感じること、生徒へのメッセージなどを書き残しています。

ブクログで読書記録しています。

booklog.jp

共通の本を読んでいたり、共通の積読がありましたら読書会をしましょう!

 

・カテゴリー説明

ブログトップページから、カテゴリー別に記事が見られます。

1.  教師塾

2016年に活動を始めました。こちらが活動理念です。

教師塾 活動理念.pdf - Google ドライブ

教員として学校中で生活し、一般社会との感覚の差が開く危機感がありました。

教員こそ外へ出て社会(教員以外の人)との関わりを持ち、学校内だけ出なく普遍的に学ぶ必要のあることを模索し、学びの場を開く重要性を感じてます。学習・交流会は20回を数えました。

これまでのように楽しみながら、明日の生活が少しでも変化がある場にしていきます。

2.  寺子屋塾 中村教室

https://www.rakuda-method.com

学びのメインツールの一つである「らくだメソッド」を毎日取り組んで(取り組もうとして)います。通塾は原則週に一度で、教材を持ち帰って自宅で学習します。

この塾は、何をどう学んでいくかは塾生によって様々です。寺子屋塾が用意する学びのツールから得られる学びや、自覚する課題は人それぞれ違うからです。 

私は、「自ら学ぶ。」とは一体どういうことかを一から体験しているところです。

また、寺子屋塾では「日常が本番」といわれており、

職場では人(生徒)が、「自ら学ぶ。」に向かうには私はどう関わればいいのかを試行錯誤している日々です。

寺子屋塾の学びのツールの一つである、「未来デザイン考程」という思考フレームを身につけるワークショップの振り返りもこのカテゴリに含まれています。

3. らくだメソッド振り返り

寺子屋塾中村教室のメイン教材であるらくだメソッドについて

https://www.rakuda-method.com

ホームページにも書いてありますが、学習者が教材を決め、学習するペースを自分で決めます。

通塾した際に、一週間の学習通して感じたことなどを書き残しているのがこのカテゴリです。

自分が進んで学習できるようになってくる経過を私なりの言葉で表現しています。

4. 学校

現在の勤務校での出来事からしか私は言えることがありません。

学校全体や教育全体に対しての物言いになっている記事は、勤務校を想像して書いているんだと思って頂けると幸いです。 

5. 各種通信

クラスや、部活動生徒に向けて通信を書いています。ミーティングで伝えきれなかったことや、考えの前提などを書いて発信しています。

6. 哲学対話

哲学対話は、教師塾で行うワークショップの一つで、教師塾でも、学校でも行っているものです。

「自分が自分にやらされてしまう。」

「やらされる」と聞くと、

他人にやらされている状態を思い描くことが多いのではないでしょうか。

他人にやらされていて、良くない場合とは、

「やらされいる」と感じることで、やらされているその事柄の効果・成果が得られない場合でしょう。

また、成果があったとしても「やらされる」状態に持ってこないとやらないのも長期的な(その人の人生の)成果に結びつきません。

 

現時点での好き嫌い・快不快に関わらず、自分の成果があるかもしれない方に、自分で自分をやらせる能力、つまりは、「自分が自分にやらされてしまう。」能力(状態)もあるのではないかと。

「自分が自分にやらされてしまう。」能力がついてこれば、

その時はその事柄がイマイチだと感じてもやってみようとしてしまうだろうし、

他人がやらせなくても、やるようになるんじゃないかと思います。

 

自分からやっているか、他人にやらされいるかの2択ではなく、

どんな状況下でも、「自分で自分をやらせてしまう。」こと、「自分が自分にやらされてしまう。」ことが、より、「自ら学ぶ。」ことに近いんじゃないかと考えています。