gt-24o’s blog

思慮深く、大胆に書きます。

捨てたもの

いやー、これは捨てたなぁー、、、

って思うものはあるだろうか。

捨ててしまって大きく後悔しているものでも良い。

 

私なら、

高校生のころは、永遠に野球をしていたかった。

共に歩むことがなくなった人もいる。

 

絶対こうじゃなきゃ嫌だ…

って言ってたこと多くあるタイプだったと思うし、今もそんな気がする。

しかし、それを思い出そうとするとなんか出てこない。

もしかしたら、上に挙げた二つはまだ捨てきれていないものなのかも。

 

にしても盛大に忘れてしまえている。

これから何が残るのか。

楽しみだ。

 

おわり

中立的な意見をくれる人はいますか。

たまたま始めたことが、

たまたま魅力的で、

一生寄り添っていくようなことになることってあると思う。

これはある程度強制されようが、自分で始めようが変わらないかなと。

その反対もしかりで、

「ああ、むいてないや。」

と思うことだってある。

 

向いている、向いてないの判断を下すタイミングは人それぞれ。

 

その人の中では、カラダで感じ取って

「ああ、むいてないや。」

のジャッジが下されているのに、

「数年やったら分かってくる。」

「やらなきゃいけないことだからやらないと困る。」

とかいう理由で半強制的に継続しなければならない環境に置かれることがある。

(半強制的に継続させられることを本人が選んでいるからなんとも言えない。極論、選べないことって私の見えている世界ではないように感じる。しかし、書きながら思ったけど、学校に来れている子どもたちを想定しているから、どんな人たちを想定するかによってこの話も変わる。簡単に一般化してはいけないなー。)

 

自分がカラダで感じたことを信じてあげることは大切だけど、

もしかしたら本当に続けていたら見えてくることもあるかも。

そんなのその時にならないとわからないけど、自分の状態、状況を客観視するのは簡単なことじゃない。

どうしたら?

1ついえることは、中立的た立場で意見をくれる人をもつこと。

一昔前?とかなら家にいるおじいちゃん、おばあちゃん?かな?

例を挙げようとすると中立的な意見を求められる人って少ない…涙

 

どんな立場からでもない言葉を紡ぐ人というのはどんな人なのだろうか。

 

おわり

人を救うということは、人を自立させることだと思う。 – 横尾忠則

人を救うということは、人を自立させることだと思う。 – 横尾忠則

横尾流現代美術―私の謎を解き明かす (平凡社新書)

横尾流現代美術―私の謎を解き明かす (平凡社新書)

 

”癒し”ついて書いてあるところから抜粋しました。

実際は、

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

こちらの本に引用されているものを読んだだけですが。

 

ここからは私見です。

教えることと救うことは通ずるものがあると思っています。

(私が)手を差し伸べて、腕を掴み、引き上げる!!

というよりは、

(相手が)下からなんか風が吹いてきたな・・・ん?なんだったんだ?

というくらいがいいなと思っています。

(恥ずかしながら)表層的には、寂しさを感じることもあるのですが、

しかし、どこかで言葉にされない感謝があるような、ないような。

そして、人知れず風を吹かせていくことに満足していくことが、

目的を見失わない、確かな充実感に繋がる気がしています。

 

おわり

本の読み方 part2

私はこれまで、本を自分の体験と照らし合わせて自分の生きる指針を得るために読んできたように思う。

本に書いてあることに体験を重ねて、

ここに書いていることは、こういうことかな?

と想像すると自分の体験に知識が結びついたような感じになる。

自分を省みることにはなるからこれはこれで良い。

 

しかし、

著者は何を言いたい・伝えたいのか?

を踏まえて読んで来なかったように思う。

 

私は8月に読書会を企画しているが、

他者に本を勧めたり、

その本で意見交換をしようとしてみて初めて、

その本に書いてある文章そのものの意味を正しく認識することの大切さを痛感している。

 

著者の伝えたいこと、書いてあることを正しく受け取ろうとする読み方と、

自分の体験に重ねて、書いてる言葉を頂戴してしまうような読み方。

両方のバランスが大切だなと感じました。

 

おわり

自分でも環境のせいでもない

やれるであろうことを、

やれるであろう時に、

やれるであろう場所で、

やれるであろう人と、

やってみる。

 

そうしたら頑張らなくてもやれる。

大切なのは(目的は)頑張ることじゃなく、やれることだから。

 

やれるであろうこと、

やれるであろう時、

やれるであろう場所、

やれるであろう人

の組み合わせはアタマで考えても分からない。

考えずに。やってみてしまう。動いてしまおう。

 

そのうちわかってきて、

自分がやれる環境に身を置けるようになる。

 

まずはやってみる。

この時に大切なのは、

やってみたときのカラダで感じたことを記録し、残しておくこと。

 

自分に合う環境は、

やっていくなかでわかること。

 

環境のせいでもない、

自分の頑張りや努力の不足、能力の問題でもない。

「やってみていていない。」

という事実が問題だ。

 

おわり

私の服と店員さんと友人

服が好きである。

私の”服が好き”には人が関わっている。

 

仕事のシャツとスラックスは5着、5本でブルーにしている。

これは選ぶ時間を減らせるから何となく。

 

デニムと白シャツ(白T)にコンバースCT 70が今は好きである。

 

(今はなき)ある古着屋さんの(綺麗な)店員さんが、

「デニムに白シャツでカッコいい人がカッコいい。」

と聞いてから、

カッコいい白シャツとデニムを探して、見つけて、よく着るようになった。笑

 

服好きでカッコいい友人から影響を受けている。

大学生の時はよく真似していた。

その友人はデニムのロールアップ(パンツの裾を折り曲げること)の長さをも気にかける。

色味、サイズ感、素材などの要素も大切だと(言わずに)表現している。

しかし、気にかけているようなそぶりもこだわりも表面化はしない。

でもそうなっている。これがカッコいいということかもしれない。

 

デニムに白シャツはある店員さんの影響で、

コンバースCT70はカッコいい友人の影響で履いている。

 

好きなお店(ほとんどここしか行かない)は、店員さんが好きだ。

似合ってないものは似合ってないと言う。

買うものがなさそうだと見るや、

店先の椅子とテーブルで、仕事と人生とどうでもいい話をする。

この話が僕にとっては大切だったりする。

たまにかるく説教もしてもらえる。これもまた納得できることがあるから嬉しい。

 

何で服が好きになったか?

服を好きな人が素敵に見えているからだと思う。

 

おわり

君は知りすぎた…

その後に、

「すまないが、生かして帰すわけには…」

みたいなセリフを映画などでよく耳にします。

 

春休み中、職場で本をお貸しする機会がありました。

クラスに置いている本棚を職員室に引き上げて置いていたところ、席の近い先輩が貸して欲しいとのことでした。

初めは興味本位で読まれていたようですが、

数冊読んだところで、新学期が始まりました。

一ヶ月も経たない4月下旬に仰っていたのは、

「本で読んだことに気がついてしまう。読まなければ何もなかったように過ぎていくことだった。知らなければしあわせなこともあるのかもね。」

確かになぁと。

自分の努力で、自分のフィールドで何とか出来そうなことについて知ることは、課題の解決になるかなと思います。

しかし、自分一人ではどうにもならないこと、自分がどうにかしたいと思っていないこと(他にやることがある)について、知ってしまうとどうだろうなと。

 

生きていて知れることより、

やれることの方が少ない。

解決、改善、為になることはもっと少ない。

 

知っていくことは、知らないことに手を伸ばすことであるとするなら、

 

一度知ってしまったら、もう後戻りはできないのかもしれないなあーと思いました。

 

おわり