gt-24o’s blog

思慮深く、大胆に書きます。

全部置いてくる

勝負の6月?も20日が過ぎました。

西尾のスタミナの減少とは裏腹に、

クラスはとても楽しそうです♪

 

愛も、思いやりも、元気も、言葉も振り絞って置いて来ています。笑

それを受け取ってくれる人がいるというのは素敵なことです。感謝です。

 

ただ、水を吸わないスポンジのようになってきている気もします。笑

ただそれでも、希望・前向き・できる・やれる・大丈夫。

今この瞬間からどうしたら良いかを考えていきます。

言葉はココロと直結しています。

だからこそ、

吸わないスポンジの時だからこそ、

言葉だけは大切にしたいです。

おわり。

弱いものたちが夕暮れ

弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく

THE BLUE HEARTS TRAIN-TRAIN より

 

今は

"弱い者達が夕暮れ 強き者をたたく"

気がします。

 

強い弱いなんて誰も決められない。

この上下関係は本当に煩わしい。

だけど、学校内にもこんな"上下関係"がある気がする。

 

教員は"強き者"でなければならないという強き意識。

そんなことない。

 

子どもは弱き者かもしれないが、大人が"弱き者"だと思い込ませる節もある。

 

大人は強き者でありながらも、弱い一面を自然に見せられる。

子どもは助けられながらも、強き者になれるという未来が想像できる。

また、その未来を信じることが出来る。

 

一人一人が、立場に縛られない。

そんな関わりが出来たらないいな。

 

おわり。

ジャン=ジャック・ルソー

人生の最初の四分の一は

その使い道もわからないうちに過ぎ去り、

最後の四分の一は

またその楽しさを味わえなくなってから

過ぎて行く。

しかもその間の期間の四分の三は、

睡眠、労働、苦痛、束縛、

あらゆる種類の苦しみによって費やされる。

人生は短い。

by ジャン=ジャック・ルソー

 

私は現在、そこまで苦しみがあるとは思っていませんが、

この瞬間が楽しすぎて、ありがたいことに目の前にやることが溢れている。

創造性のある脳の使い方はできない時期であるかもしれない。

inputもoutputもできる状態じゃないような。

しかしこの時期があるから、少し時間ができた時に猛烈にoutputし始めるのかもしれない。

今は言葉に出来ていないものが、アタマやココロの中に溜まってます。笑

 

そんな状況と最近読んだ本の内容を撃ち抜いたような言葉。

 

そして、最初の1/4に使い道わからないなんて言わせないように日々生活していきます。

おわり。

自分は万能じゃない

人だから万能じゃない。

 

万能であろうとするわけでなく、

万能になることを諦めるわけでもない。

 

考える前に教えもせず、

困るまで放っておきもしない。

 

感覚も大切、

理論も大切。

 

先生らしい西尾であるし、

西尾らしい先生。

(私の場合は、ほぼ西尾で時より先生)

 

学校にいる人で学校が成り立ってる。

これ以上で以下でない。

必然的にこうなる。

 

一人の力は知れている、

けど諦めない。

おわり。

どちらが悪いかなんてどうでも良い。

マジョリティ(英:majority)は、本来、「多数者」・「多数派」を意味する英語の言葉。反対語は、マイノリティ。

人が集まると集団が出来る。 集団を集合ととらえたときの最大の部分集合がマジョリティになる。

 Wikipediaより

 

人は集団の中では、マジョリティでいたがる傾向があるように思う。

孤立することは人にとって危険なことだというのはよく分かる。

 

孤立することを怖がることで、不自然にもマジョリティ側にいようとすると疲れてしまう。

自分らしくいることから離れてしまう気もする。

 

担任は41人目としてクラスにいる。

だから、どっち派とか。

ジャッジしたりとか。

どちらが悪いか、何が良いのか。

 

を決めることはしない方がいい気がしている。

 

より多くの人が納得してくれて、

より少ない人たちには、妥協点を探し、

全員一律の基準ではないものの、

出来るだけ全員がスッキリする形を提示する。

 

みんなが共感できるようなアイディアを考え出していくことが大切なんじゃないかなと思う。

 

些細なトラブルがあった時に、ふと

「俺はどちらが悪いかなんてどうでも良い。」

というセリフが出てきたことから考察しました。

おわり。

言葉で伝えられないこと

言葉で伝えられないことを、

手を変え、品を変え伝えていく。

 

頭では分かっていても、行動できない。

その理由を共に考えていく。

 

時には言葉にすら出来ない感情もある。

それを言葉にする。

 

おわり。

 

「仕事なんか生きがいにするな」 part2

私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。 

中略

また、現代では特に、「価値」というものが、「お金になる」「知識が増える」「スキルが身に着く」「次の仕事への英気を養う」 等々、何かの役に立つことに極端に傾斜しているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながっているものを指すニュアンスになっているです。

 

私自身、ブログをしている理由の一つとして(やりたいからやっているで十分なんですけどね。笑)、「1日に文章で意味付けをする。」というのがあります。

文章でなくても物思いに更けて1日を振り返ってもいいです。

今日1日に目を向ける時間をとることって大切だと思うんです。

大切な理由がなくたっていいんですけど。笑

 

私がつけたいのは「意義」ではなく「意味」です。

何かに「意味」を付けるのは紛れもなく自分です。

「意味」は主観的なものです。

まずは、何をするにしてもそれを、

”ココロ”や”カラダ”で感じること。

”頭”で「どんな意味があるんだろう?」と考えるのはずっと後でいいんじゃないかな?

ということです。

 

生きる意味は探しても構わないです。

楽しみ続けて、探し続けていければと思います。

 

ただ、「自分の価値は?」という問は苦しいかも知れません。

価値や意義も考えてもいいですが、

生きているという事実以上の価値や、意義はないと思います。

 

少しずつ「意味」へシフトしていって、

自然と”ココロ”で意味を捉えていけたらいいなと思います。

おわり。