gt-24o’s blog

わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

本と対話のカフェ 振り返りpart2

 先日の記事は、本の中の言葉や、梶谷さん、尾崎さんの言葉をお借りしながら、これまでやこれからのことについて書きました。

gt-24o.hatenablog.jp

 

今回は、実際に哲学対話の場を作る時のことを考えます。

 

ファシリテーターのタイプ

場の流れに任せる人、問いのカタチで介入する人、聴きつつも自分の意見を発する人・・・(あまり出てこなかった。)

人によって皆違うだろうと思います。

自分としては、どんな状態の対話が”哲学的”なのか。

これだ!というものはありません。

(今までやった中で、「おおお!」と思うことはありました。笑)

今回の対話の中で共通されたこととして、

「誰かのどんな言葉が、誰にどんな衝撃を与えるかわからない。」

ということです。

これが根本にあれば、支配的で一方的な進行をしてしまうことは少なくなるのではないでしょうか。

 

・参加者にも心構えがあることを前提に(運営側のNOT過剰サービス)

これまで第8回までの教師塾を開催してきた中で、これは参加者の方にお任せしても大丈夫!

ということも神経を使い過ぎなくらい準備をしてきたように思えます。

というのも、こちらの善意で全くの負担なく、主催者・参加者にとって有益なことはすればいいのですが、

主催者が、参加者全ての要望に応える必要はないように感じます。

そこに集まる人間が当事者意識を持ち、場を作ることに集中すれば、参加者も運営する側もないように感じます。

 

・お子さん大歓迎

託児をつけるということは、子どもが邪魔だとしてしまうことと同じです。

プログラム的にお子さんが入れないものもあるでしょう。

哲学対話の場合は、お子さんが泣いたところで、少しうるさいだけです。

聞こえなければ聞き直せばいい。

子どもにだって対話をする権利がありますから、大人と混じってやったっていい。

 

・どうでもいいことにどうでもいいと言えること

ファシリテーターは全体を俯瞰してみる立場であるので、いろいろなところに気がつくこともあるでしょう。

しかし、参加者が少し工夫すれば改善されることを、ファシリテーター(運営側)が気にして、対応してしまっては、本末転倒です。

気にしなくていい良いことには、反応しないことも大切です。

 

感想

哲学対話は、場所や環境・参加者・ファシリテーターによって出来が変わってくるそうです。

哲学対話の場づくりには正解がない。哲学対話ってこれが正しいカタチなのだろうか?

と追いかけるよりも、自分たちなりの哲学対話のカタチを模索していきたい。

 

おわり

本と対話のカフェ 振り返りpart1

1月14日(月)に東京で行われたイベントに参加してきました。

cafephilo.jp

・このイベントに参加する経緯と、この本や哲学対話との出会い

このイベントに参加したのは、

 今年の4月から職場で子どもたちと業後に哲学対話なるものをやってきたことや、

gt-24o.hatenablog.jp

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哲学対話をテーマに学びの場を開いたこと、

第8回 教師塾 〜今日からあなたもテツガクシャ〜

この学びの場を開いてみて、

哲学対話を定期的に開こうと思ったからです。

 

また、この本が

考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)

”哲学”という言葉をみんなのものにしてくれた気がしました。

誰にでもできることであるのと同時に、際限なく対話の深さを探求できる。

簡単なようで、難しい、だけど誰にでも出来る。

相反する特徴を併せ持つ哲学対話に惹かれたからです。

 

・著者・梶谷真司さんがこの本を書いたきっかけと自分が哲学対話をやりたい理由

この本を書いたきっかけはこの記事からだったそうです。

www.projectdesign.jp

この記事を読んで、また今回の梶谷先生の話を聞いて

学校の中にいるものとしては、

「まさしくその通り。」

という感じ。

いわゆるの”学校”でおかしなことが行われていることは事実だと思います。

そして、

「学校関係者としてこのようなスタンスで記事を書いてはいけない。」

と考えていました。

しかし、

私は、「学校」ではない。

(学校がどうのこうのっていうけど、学校って誰なんだろう。)

学校を肯定も否定する気もない。

学校の中で行われている変なことを体験している事実はあります。

それを誰かのせいにしたり、制度のせいにしたりして、

自分が何もやらなければ、目の前にいる生徒の当事者意識は日に日に薄らいでいきます。

私は、今の学校の在り方との距離感がまさに、

この本に出てきたように、

「受け入れないけど、受け止める。」

ということだと思っています。

今の学校の状態を評価をする気がない。

良いとも悪いとも言わない。

だけど、自分がやったほうがいいと思うことをやる。

 

私は学校を変えたいんじゃなくて、

その学校にいる生徒や、生徒との関わる大人と共に、考え、語り、気づきあっていきたい。

 

だからこそ、哲学対話をやっています。

学外でもやってみましたし、これからもやります。

これくらいがシンプルでいいなぁ。

 

part2では、哲学対話の場を作るとしたら?という視点で書いてみようと思っています。

 

おわり

craft beerの世界

クラフトビールに詳しいわけでないのですが、好きでよく飲みます。

わかりやすいサイト

【ビール入門】クラフトビールって何?イラストで分かりやすく解説 | ビール女子

旅行に行くと必ずと言っていいほど、日本のクラフトビールを飲めるお店に行きます。

(海外の方がクラフトビールが多種多様なのですが、ありすぎてよくわからないのと、日本のマイクロブリュワリーの方が企業理念などが調べやすくて親しみが持てる。)

その中でも、実情は知らないですが、企業理念がカッコよくて、働いてみたくなる醸造所の直営店でビールを飲みました。

f:id:gt_24_o223:20190114190055j:image

https://faryeast.com/company/

以下はサイトより抜粋

ビールは数千年前から愛飲され、世界各地で文化に根ざして発展してきました。
ところが前世紀に起こった工業化は、ビール飲料を世界中に普及させることには成功したものの、その一方でビール自体に「黄色い炭酸飲料」という画一的でモノトーンな印象を与える事になってしまいました。
その結果ビールは、造り手の哲学や創意工夫によってではなく、一つの商品に投下されるプロモーション費用の大きさが重要となってくる大量生産品になり、ワインや日本酒と比べると多様性のないお酒に成り下がってしまいました。

1970年代からじわじわと起こった「クラフトビール」というムーブメントは、モノトーン化してしまったビールをもう一度大衆の手に取り戻し、多種多様なビールを楽しむための動きとも言えます。
当社は個性あふれるビールを世界中に届けることで、ビールに多様性を取り戻し、「民主化していく」ことをミッションとして活動しています。

かっこいいです。

インスタグラムの投稿前半にに人知れず、

クラフトビールの記録をしております。

nishi24o

 

おわり

谷川俊太郎33の質問 著:谷川俊太郎 part2

谷川俊太郎の33の質問 (ちくま文庫)

 この本を読むまでの経緯から書いた記事はこちら。

gt-24o.hatenablog.jp

 

この本は、谷川俊太郎さんとある7名の対談記録。

対談に共通するのは、谷川さんが33の質問をします。

 

今回、引用するのは吉増剛造さんとの対談です。

全身詩人・吉増剛造の自伝がヤバすぎる! 77歳、その人生の記憶の奔流(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

 

以下は何だかココロにとまったところを引用します。

吉増剛造への33の質問

一九七五年一月一二日 東京 渋谷 ジアンジアンにて

谷川 11 もしできたら、「やさしさ」を定義してみて下さい。

吉武 これ、よわったなぁ。おそらく、他人というか、人間に屈辱感を味合わせないような配慮がひそかにできる能力

谷川 ひそかにということは、他人にそれが伝わらなくてもいいこと。

吉武 ええ。

 

 

・人間に屈辱感を味合わせないような配慮がひそかにできる能力

これは人と接する時、ましてや学び合う仲間と接する時にはとっても大切なことだと思う。

その人がその人らしく、その人の道を一歩一歩、楽しみながら進んでいくことを願い、サポートしようとする人は、この配慮ができるだろう。

人の生きる目的を一つのものさしで測ってしまったり、

自分が価値を置いていることを一般化すると、

ときに人を傷つけてしまうことがある。

熱意や情熱だけでは人は変われないし、その人らしく成長することはできない。

(一時的なエネルギーにはなりうると思う。)

能力を発揮するときってのは、大切な人が本当に困った時でいいのかもしれない。

 

おわり 

言葉に血が通う

相手の距離感をジリジリ距離を探る。

お互いに相手の領域が(この先はどうかな〜?大丈夫かな?っと)うっすら見えている。

その領域に一歩を踏み出すときは、今まで言葉を放った中で一番慎重になる。

言葉選び、トーン、間などに気をつけて、直接的な表現か、間接的な表現か。

自分と相手の価値観の前提にずれの確認も大切。

 

満を辞して、

聞いてみる。

答えてみる。

 

受け入れてもらえないこともある。

答えてもらえないこともある。

それはタイミングなのだから仕方ない。

 

もし、

あるエピソードを聞けたり、

一人の人間としての気持ちが聞けたりすると、

今までの行動に合致がいってモヤモヤが晴れたり、

自分にも同じような経験があり、その人の立場で物事が考えやすくなったりする。

 

立場で言葉を紡ぐことが悪いわけじゃないです。

 

ただ、

その人にだからできた表現

「自分ってこう思っていたのかもな・・・」

とか、

その人から想像してもいない表現

「君がそんなことを(本心で)考えているなんて・・・」

なんていうことが起きるとき、

それらの言葉には血が通っていると表現したい。

 

おわり

1月の読書予定と許し許されること

昨年の8月に少し読んでそのままになっていた本ですが、

ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生


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今月の読書本に設定しました。

 

職場が学校であることもあり、

問題行動を起こしてしまう子も少なくありません。

そんな子たちとの関係性をどうしたものかと考えていたのですが、

何となくこの本を今月の課題本にしたにしては、運命的なものを感じる内容でしたので引用します。

 

 謝ることは義務ではなく、チャンスである by 北川達夫 

 悪いことをしたら謝る―これは万国共通の道徳のように思うかもしれません。確かに、謝るという行動だけを表面的に見れば、万国共通の道徳と言えるでしょう。しかし、その行動の背景にある発想は文化によって大きく違います。日本人は往々にして、悪いことは悪いんだ、謝るのは当然の義務ではないか、と考えがちですが、この発想は必ずしも万国共通のものではないんです。

 ヨーロッパの道徳教育では、一般に、「謝ること」と「許すこと」を小学1年生から習います。

 人間とは不完全なものであるから、無意識のうちに悪いことをしてしまうこともあるし、意識的に悪いことをすることもある。たとえば、だれかに迷惑をかけたとわかってわかっていても、人間とは不完全なものであるから、相手に謝ることは難しい。また、迷惑をかけられた方も、やはり不完全なものであるから、相手を許すことは難しい。このように「謝ること」と「許すこと」の難しさを確認したうえで、「謝ること」と「許すこと」は人間に与えられた最後のチャンスなんだと教えるんですね。不完全なものである人間はどうしても悪いことをしてしまうから、相手に謝り、相手を許すことによって生きていけるというわけです。

 ここで重要なのは、謝ることにせよ、許すことにせよ、あくまでもチャンスであって義務ではないということ。相手に謝るかどうか、相手を許すかどうかは、最終的には本人の選択に任されているんです。ヨーロッパの道徳教育においては、この「謝ること、許すことは義務ではなくて、チャンスである。」ということはとくに強調されている点です。

私は、人との関係性を構築するには信頼(無条件の関心)を寄せ続けていくことだと書いたことがありました。 

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しかし、何度も何度もそういったことが起きるにつれて、気持ちが向かなくなってきます。こちらが折れそうになってしまうわけです。

(人は自分と接すれば変わってくれると心の奥の方では期待してしまっているのがよくわかる。)

その子たちどうこうというより、

相手を信頼することができない自分を嫌いになってた気がします。

 

しかし引用した文章でハッとさせられたのは、太字にした部分です。

何だか、許してもらえたような気がしました。

私はロボットではないし、完全無欠の神でもない。

誰かを許せない自分を許せない

という状態だった自分を許せた気がしました。

人の行動・言動なんて変えられない。

自分はできることは限られている。

あーどこかで聞いた言葉なのに。笑

 

先月読みきれなかった

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

谷川俊太郎の33の質問 (ちくま文庫)

谷川俊太郎の33の質問 (続) (ちくま文庫)

こちらを今月は読み進めようと思っています。

おわり

第3回 ちょっと緩い教育座談会

今日はタイトルのイベントに参加してきました。

イベント詳細はこちらに⬇︎

受付終了 ちょっと緩い教育座談会

基調講演後のグループワークがあり、内容としては

学校だけが教育の場ではなく、地域にどんな支援機関とかあればいいかみんなで意見を出し合って、それを発表する。

というもの。

公で行うものでなくても、自由な発想で語っていいということでした。

 

参加者から、

「すでにあるんじゃないか?」

「学校がどんな場所であろうと、自分は自分と向き合い、ここまで生きてこれた。」

との意見が。(発言内容と相違がある可能性があります。)

対話を行う前に、テーマにするような場が必要かどうかを問う意見だと思いました。 

ちなみに、

名古屋市が運営している教育施設の一覧はこちらです。

名古屋市:教育施設一覧(市政情報)

これだけありますが、行ったことないところがほとんどです。

ある意味自分も、学校以外の教育施設に行かなくても生きてこれている実感があります。

 

しかし、まだぼんやりとしていて文章化できないままですが、

学校のように数的で序列的な評価の下されず、

その人がその人らしく、学んでいけるような場所を作りたいと私は考えていました。

なので、今回のテーマは私にとってはぴったりだったので、

ああしたら?こうしたら?と意見を頂きつつ、話し合いができました。

 

今回の話し合いとこの記事を書きながら気づいたこと。

・場で優先する要素によって、その場の設置場所やカタチ・目的が変わってくる。

⇨ 地域が決まっている場合は、その地域に住む人たちのニーズに応えながら変化していく場に。どんな人たちの力になりたいか(ターゲット)が明らかであれば、場の設置場所よりも、コンテンツと情報発信方法を考える。

名古屋市内の教育施設についてよく知らない。

⇨ 調べる必要あり。

・自分にどんな力があり、場を設けるに当たって何を優先するのかが明確でない。

⇨ いろんな人に相談してみる必要があり。

 

おわり