gt-24o’s blog

わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

準備

明日は教師塾です。

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今までの教師塾は、

私があるテーマを学びたいと思い立ったり、

自然なご縁と繋がりで講師をお願いしながら、

先生も先生じゃない人も集まって学ぶ場を作ってきました。

 

今回は自分で場を作ります。

何か学ぶというより、

丁寧に対話をすることで、見えることがあればいいなぁと思っています。

”哲学対話”といいますが、

私自身が哲学を専攻して学んでいなかったこともあり、

”てつがく対話”とさせて頂きました。

 

しかしながら、

今回の”てつがく”は、先人が体系的に構築した知識を学ぶものではありません。

参考にしている本から引用すれば、

「問い、考え、語り、聞くこと」

です。

 今日まで学んできたことが良くも悪くも出るだろうと思います。

私がやることは、参加者の方と共に対話を作り上げることを手伝うことです。

ほぼ参加者の1人なのですが、

若干、対話の行く末も気にしている感じです。

 

皆さんで良い時間にしていきましょう。

おわり

学びは誰のものか。

知りたいこと・できるようになりたいこと・成長具合は自分で決めていい。

これを決めるということが自分の生き方を決めると言い換えてもいいと思っている。

 

これらの自由(選択)を行使して初めて、その結果に責任が取れる。

責任というと重さや尻拭いというマイナスイメージがあるかもしれない。

学校では、(そういう学校でない学校も多数あります。一般化はできませんが。)

「勉強をやらなかったら、将来困るのはあなたですよ?」

というお節介があったり、

「勉強をしないのなら、その先の人生は自分でなんとかしなさいね?」

とか言われてしまったりするかもしれません。

マイナスイメージを増幅させてしまっているのはこれのせいかもしれません。

(生徒のことを思っての言葉であることもあるでしょうが。)

 

そもそも、人生の責任は生徒(学習者本人)にしかとれない。

それに、学習を行う・時間・内容・共同学習者・担当教員さえも自分で決めていない時点で、そこに自由はなく、責任も発生しない。

とれない責任を取らされているような状態と言ってもいいかもしれません。

 

自分で学ぶことを決めたのであれば、まずやらないという選択肢がない。

選択肢を増やして、学ぶことを自分のものにできるような関わり方をしていく。

 

おわり

問い方・関わり方

勉強してる?

と問われて、

「しています!」

と答える子も、

「していません。」

と答える子も少ないだろう。(いるかもしれないど。)

この質問は答えずらい。

”勉強している”の基準は他者に設定されない限り全員違う。

そして、この基準は学習者本人が決めることが望ましい。

学習に対する基準を決める(自由の行使)ことで、

その後の結果に責任が持てるからだ。

 

 

 

それなら、

勉強してる?

と問わず、まずは

”勉強している”

という基準を一緒に作ることだ。

(いつやるか・どうやるか・誰とやるかなどをなんでも決めてもらう。決めたならそれを守れたかどうかを確認してあげて、決めてもできなかったのなら、何度も決めてもらってチャレンジしてもらえばいい。)

 

この時に重要な事として、

色々な問いを出す時に、

”勉強をしない”

という選択ができる形で問わないことだ。

 

「勉強してる?」

と聞いて、

「勉強していません。」

と返され、

「勉強する気あるの?」とか「勉強したいの?」

と問うのはイマイチだろう。

「する気ないです。」、「しないです。」

と言われたらそこで終わりだ。

(そもそもお節介だから、答える気にもならない。)

答えさせておいて、

「勉強する気がないとは何事だー!」

と言ってしまっては、とうとう会話にすらならない。

 

問うということは、

当事者が選ぶ(自由の行使)ことに重要さがある。

学習をすることは大前提だ。

人は適切に自分を自分で操作することができれば、自然と学ぶことができる。

その自然と学ぶことのできる環境や条件は人によって全員違う。

であれば、問うことは、その学習者が自然に学んでいける環境や条件を共に模索していくのに使われなければならない。

そして、学習者と関わるものが、次第に学習者と距離をとり、学習者が1人でに学んでいけるよう見守っていくことだろう。

 

おわり

過去の自分との距離感

過去の自分と、今の自分にどれくらいの距離感があるだろう?

距離感という言葉を選んだのは、

比較するでもないと思っているからだ。

過去の自分はその時のベストの選択をしていたはず。

ベストかどうだったか?という視点は比較から生まれる。

今の自分だや他の誰かと比較するから計り知れるものなので、あまり気にしないでいいと思う。

今の自分はそれなりにベストを出しながら生きていると思ってはいるけど、また少し先の未来から今を見れば、いくらでも改善点は出てくるだろう。

(それは学び続けているからかもしれない。)

 

だけど、

今思い出してもげんなりしてしまうこと、

一生誰にも言えないこと、

涙が出てしまうこともあるだろう。

 

過去の自分と決別することはできない。

ゆるやかに向き合いながら、

それでいて、過去が今に生かせる自分のための情報であればいいと思う。

 

おわり

谷川俊太郎 質問箱

谷川俊太郎質問箱 (Hobonichi books)

この本は、WEBサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載された「谷川俊太郎質問箱」がもとになってできた本であるとのこと。

気になった部分(ほとんど気になるのですが・・・)を引用してみます。

 

ふつうの言葉と詩の言葉の違いは何ですか?

 (みく 三十四歳)

 

谷川さんの答え

ふつうの言葉だと、
たとえば、「あなたを愛しています」と言うと、
あるいは書くと、
それは嘘か、本当か、
それとも嘘と本当が混じっているのかが問題になります。
詩の言葉だと、そういうことは問題になりません。
「あなたを愛しています」という言葉が、
その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を動かす力をもっているかが問題になります。
言い換えると普通の言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、
詩の言葉の主体がいますが、詩の主体である詩人は真偽について責任はなく、
言葉の美醜、または巧拙について責任があるのです。

 

私自身、話すことに苦手意識はありませんが、(正しい言葉遣いで、ミスなく話すことは苦手)文章にすることも好きです。

文章にする時には、相手のことを考え、言葉を選んで何度も書き直すことができます。

伝えたいことをもれなく、詰め込むことができます。

恥ずかしくて、言葉にできないことも、文章なら表現できたりすることもあります。

 

逆に直接声に出し、話すことで伝えられることもあるでしょう。

言葉数は少なくても、立ち姿や、表情・声のトーンで伝わることもあるでしょう。

ただ、緊張したりして言葉足らずになってしまったり、一番大切なことを伝えきれないこともあるような気がしています。

 

いつも同じようなことを口頭で伝えてしまう時には、

たまにはその言葉に込めている意味を文章にして伝えてみてもいいかもしれません。

 

文章に頼りきりになっている時には、思い切って前に出て直接的な言葉をかけてあげられると良いかもしれません。

 

最近は、文章にして誰かに伝えることが少なかったように思えます。

学期末で2年4組もあと3日です。

文章で伝えてみてもいいかもなと思っています。

 

終わり

それはそれ。これはこれ。

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どんな頑張ったって伝わらず、

恨まれることだってある。

忘れっぽい担任の上着をこんな綺麗にして教卓の上に置いておいてくれることだってある。

 

自分らしくいて恨まれたならそれはそれ。

畳んでくれて嬉しかったからありがとう。

 

今日の晩ご飯はカレーみたいです。

楽しみです。

 

おわり

通勤と本

電車での通勤が始まった。

初めての経験だ。(今まで自転車と歩きと友達の車に乗せてもらうという方法を取っていた。)

仕事が落ち着いているのもあり、

電車の中では本を読む余裕がある。

 

朝かその前の日に本棚を眺めて、一冊二冊カバンにいれる。

 

本は新たな視点を自分にもたらす。

読む本によって、その1日に影響がある。

一度読んだ本をもっていくことが多い。

新しい本だと出会ったことのない自分で1日を過ごすことになるし、朝の時間では読みきれないので気になってしまうから。

読んだことのある本でも、思い起こしながら読むだけでなく、今まで目が行かなかったところに引かれたりする。

それは日々、自分の中に変化があるからだろう。

本を読みながらバランスを整えることにもなっているように思う。

 

おわり

 

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