gt-24o’s blog

わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

私が学びたくなる先生

「何を言っても・聞いてもいい。聞かれても答えなくていい。聞かれてないことでも話していい。」という接しやすさがある。

その先生は、自身のために淡々と学んでおり、求められれば答えるというスタンス。

その先生は、私が先生だと決めた人で、その人に魅力を感じている。

楽しそうなので、その先生が学んでいることは、何か触れてみたくなる。

「これを教えるよ!」って言わない。問わないと引き出せない。

「こんなことことを考えているんだよねー。」というのはある。

誰よりその人らしく、誰より自分を薄めている。

 

私が学びたくなる先生。

求められてこその支援

人はどんな環境においても、

その場で、その人なりに学んでいると思っている。

教えようとしなくても、勝手に何かを感じ、何かを学んでいることもあるだろう。

その人の合意がない状態で何を教え込もうとしても、

教えたいことが身につかないばかりか、

望まない状態で教え込まれることによってそれを回避することを学んでしまっては本末転倒だろう。

もちろん、教えてほしいこと、答えのない問い、問いになりきっていないモヤモヤ問いがあり、問われる機会があれば、サポートする人(先生や親御さん)は支援が始まる。

しかし、ここでもすぐに答えを出さなくても、共に学び・考える姿勢があれば私は十分だと思っている。

誰かに聞けばすぐ答えがでる。それを何の根拠もなく鵜呑みにするようなことはあってはならないからだ。

最終的には、自分で納得して、自分でその出した答えに責任をもてることが大切になると思う。

 

このように書いてきたが、上記のようには思えないこともあるだろう。

人には発達や成長のスピードは全員違う。

しかし、

早くできるようになる方がいい。

この年齢ではこうあるべき。

などの価値観が前提にあると上記のようにはいかなくなるのだろう。

 

学習者などの支援の要請なし・同意なし・質問なしに始まる支援によって、身についた能力(これが能力になっている場合もそうなってない場合もある。)の代償はあまりに大きいのではないかと感じる。

 

終わり

部通信 No.11

[手を動かすこと]

「トレーニングの仕方を教えて下さい。」

「練習方法を教えて下さい。」

と聞かれることがあるが、

私は、

「今はどうやっているか?」

「今の練習をどうしていて、どう改善したいのか?」

と問い返す。

このときに、あなたが自分でやってみていない、手を・身体を動かしていないのでは答えられない。

こちらもアドバイスのしようがない。

 

レーニングに取り組めないのは、奇抜なトレーニングや効果のありそうなトレーニングを知らないからではないと思う。

手法なんてネットで調べれば、山ほど出てくる。

やった方がいいのはわかっているけど取り組めないことに課題があるのではないだろうか。

「結局、やるかやらないか。」というのを頭でわかっていても、動けないのには理由がある。

その理由に向き合おうとしてみよう。(少しならアドバイスできるかも・・・)

 

私もトレーニングが嫌いだった。

レーニングを続けられないのは、競技への愛が不足しているからだとか、

俺は努力ができない人間なんだ・・・とか、色々考えた。

しかし、頭で考えても、この文章を読んでもいきなりできるようにならない。

自分を鏡のように映し出してくれる人を見つけ、一緒に自分と向き合ってくれる人を探してみてもよいかもしれない。

ダメな人間じゃなかった

夏休みが明けて、ある生徒さんが声をかけてきた。3年生だ。

この生徒は、就職先がほぼ内定しており、夏休みから出勤していた。

学校では、課題を出さない・授業を聞かない・そもそも学校行きたくない。

という状況の生徒だ。

でも親に行けと言われていているし、保険で高校は卒業したいからきている。


学校は行きたくなくて全然起きれなかったけど、仕事の日は朝が起きれた。

働く人のモチベーションは学生と違うし、楽しいとのこと。

何より、

僕は、ダメな人間じゃなかった。

という感想に、私は複雑な気持ちになった。

(申し訳ないな、でも良かったなぁという複雑な気持ちだ。)

学校への報復的なニュアンスもあったかもしれない。

でも、それは学校での規範が、働くときの規範と重ならないことが多すぎることからだろうと思う。

私は謝りもせず、さとしもせず、ただ良かったなぁと共感した。

 


私が良かったなぁと思ったことは、

まず、この話ができる関係性を築けたことだ。

日頃から学校のおかしいと思うところは声に出す生徒であった。

もっともな意見であることも、ただめんどくさがっているときもあった。

私が社会に出ても必要だと思う資質に、彼が目を背けることがあれば、声をかけることはあったが、学校特有のルールで嫌がっている場合は、ドンマイといいながら肩を叩き、共にめんどくさがった。笑

 


どう変化させようか?

成長させようか?

と考える前に、その人の現状を共に共有することがスタートできたのかなと思った。

誰かに問い、学び、誰かに問われ、学ぶ。

ある人物の考え方や価値観に触れてみて、

それが自分に合っていると思ったとしよう。

また、実生活の中で思うことがあったとしよう

正しいとか、善いとか、美しいとかの自分の中にある物差しが反応する。

細かいところまで自分の言葉で説明出来るようにもなったとして、

その考えがどう正しいか、どう善いか、どう美しいかを過去の偉人から意見と照らし合わせてもみる。

 

それでも、他者に振りかざしてはいけない。

不安を煽るような情報を元に、こちらに目を向けさせ、

知識を植え付けるようなことはしてはいけないと思う。

 

「問われれば、応える。」

という姿勢が、価値感の振りかざしを防ぐカタチだと考えている。

教えよう・伝えよう・理解してもらおうという動きが先行し、

それを受ける側に準備ができていなければそれらの知識や情報は効果を発揮しにくい。

問いを発するということは、全ての準備が整った上で、知りたいことを局所的・効果的に知ることができる可能性がある。

問われるまで教えない姿勢が、学ぶ側に学びにおける大切な姿勢(問うこと)を教えることができるのではないかと思う。

問われる方は、全知全能でなくとも、知識をすぐに届けなくてもよいとも思っている。

その人に有用な知識などにたどり着くためのヒントを伝えられたり、

知識への道のりを示すことができれば十分だろう。

それには、問われる方は同時に問う側にいることが必要だと思う。

 

誰かに問い、学び、誰かに問われ、学ぶ。

知識・価値観は振りかざさず、問われるまで待つ。

 

おわり

学ぶこと 2019.9.5

私は人に生かされているし、

それと同時に生かしてもいるだろう。

一つの選択をするにしても、無意識に外的な要因から影響を受けている。

 

このような感覚を強く感じるようになったのは、3年前からほぼ毎日向き合い・取り組んできた算数・数学のプリントの存在だろう。

教材URL

らくだメソッドの教材|どの子にも学力がつく らくだメソッド

このプリントを毎日やることは自分で決めた。

(しかし、プリント教材やこの教材を取り扱える塾や塾長に出会えたことは自分の力だけではないとも思う。)

寺子屋塾 中村教室Webページ

セキュリティチェックが必要です

 

目的を持たず、プリントに向き合い、自分の心の有り様に目を向けてきた。

このプリント教材を作った人、この教材を通して、様々な自分に出会わせてくれた人、共に学習する仲間などと影響し合いながら今日もプリントを行った。

 

今まで使っていた「主体的」「能動的」という言葉の意味は大きく変化した。

(というか、ほぼ定義できないことに気づいた。)

プリントをやらない日は0ではないが先月は4日ほどやらなかった。

もし、3年間プリントをやり続けたとしても、自分のことを、主体的かつ能動的に学習している人間だとは思わないだろう。

プリントを続けることは目的じゃない。

目的や意味をもたなくても、プリントが自然にできる。

強い意志も・習慣力やコツも・努力もいらない。

ただ、プリントと向き合い一枚のプリントをやること。

 

今の学びに対する感覚を言葉にしてみました。

「自然に学びと寄り添っていて、学んでいるという意識すらないままに、自らの課題をほどいく方へ向かっている。」

 

おわり

 

いつも

いつもと同じ時間に同じように行動すると、ある意味心の余裕が生まれて自由になれる。

いつもと全く違う、そもそも"いつも"なんてないような生き方にも自由があるだろう。

 

これは人によって違う。

別にどちらでもいい。

合う方でいい。

 

その中でも"毎日(ある時間単位に一度は)、続けること"があるとまた違う感覚が得られると思う。

 

いつもまっまく同じ一日がないように、

全く同じということもないようにも思う。

同じような日々を過ごしていても、

その人の過ごし方で変わってくる。