gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

友人の結婚式

高校の同級生の結婚式に出席させてもらった。

素敵な式だった。

その友人とは高校野球で3年間共に過ごした。

「彼とは3年間、仲が良かった。」

と言うと彼が困るほど、私は高校生のとき(今も変わらず…?)接しづらさのある人だと思い返される。

野球に対しては情熱はあったが、周りと調和が苦手で、自分の考えを押し通すタイプ。

また、自分の考えを部員に押し付けることも多々あった。(これが良くない、、、)

野球の実力は伴わないけども、モチベーションは高く・理想も高い。

かと言って、誰より努力し、結果を求めたかというとそこまでの厳しさを自分に向けることはできず、理想と現実のギャップに勝手に1人で苦しんでいた。

(今も仕事や私生活でうまくいかない時はそのパターンである。)

 

彼は優しく、分け隔てなく誰ともコミュニケーションの取れる人物だった。

それでも。私が明らかに間違っている時はバシッと言ってくれる人物だった。

そのおかげで、何とか野球を続けられた。

2人でコツコツと打撃練習を行い、お互いの理想の打撃を体現した喜びは今も忘れられない。

コツコツと続けた努力の成果を自分の能力と過信して、練習をサボり打てなくなったこともあった気がする。笑

 

私は高校3年間の彼しか知らない。

それから10年経って、彼がどんな人物かと司会者の方に問われた。

急にコメントを求められたが、私は彼にお世話になった分、話す内容には困らなかった。

 

私は新婦の方のことはわからないが、共に過ごした3年間から想像するに新郎である友人との結婚は間違ってないだろうと思うと伝えさせてもらった。

 

今後ともお幸せに。

勉強したいけど、できない・・・

学習へどうしても取り組めない。

カラダが動かないという生徒さんの話を聞いた。

その中で思ったことを書こうと思う。

その生徒さんは自分で取り組むことが学習を進める第一歩であることは感じている状態。

学習に対して試行錯誤し、自らと向き合い、ペーパーテストの点数も上がっている。

しかし、自分の意識と行動が一致しないことに苦しさを感じているようだった。

彼を見て、今までの環境による"勉強"に対する無意識領域の刷り込みがあるように感じた。

(誰かが悪い・学校が悪いとかが言いたいのではない。)

 

なぜ?と考える前から、

学校へはいくものであるという前提が大きく横たわっている。

教室に人を集めて、

時間割という時間的拘束、

授業規律という方法的・身体的拘束、

批評家者という精神的拘束を受け続ければ、

カラダがう動きにくくなるのも無理はないのかなと思う。

 

体も心も大きく不安定ではない状態で

勉強をしよーとか、したくないとか思考せず、

当たり前のようにカラダが動き、学習に向かう状態があってもいいはずだと思う。

(私にとってはこれが理想なのかもしれない。)

ふら〜っと、ボケーっとスマホをいじるように教科書を読んだって何ら不思議ではないはずなのに、

授業や学校以外で、これをするにはエネルギーが必要(な気がしている。)

 

この不思議な学習への大きな壁がなぜできるのか?

どうできてしまうのかを、学校にいる生徒さんも教員も見てみようとして欲しいと思う。

「あれ?」と思ったときに

私の職場(私の勤める学校)では、学校でのルールと、社会でのルールに違いがある。

学校を卒業すれば今後、一切気にすることがなさそうなルールも存在する。

ブラック校則なる言葉や映画が出てきていることからも、学校と学校外とのルールや文化にギャップがあるのは一般的と言ってよさそうだ。

black-kousoku.org

bla-kou.jp

 

校則だけでなく、学校ごとに細々とした文化があるだろうし、教員ごとに価値観の違いから言うことも違うだろう。

学校ごとに違う校則・文化・指導などを学校では多くの場合、強要されるのではないだろうか。

校則をすべて知り、独自の文化や指導にすべて同意して入学することなどは不可能だろう。

入学して生活してみてわかることがあり、それに同意をしかねるなら行動しよう。

ルールを変更・悪しき文化の改善には生徒主導で動くのが改善の一番の近道だ。

それと同時に、教員は生徒の意識や価値観に関心を向け、同意や確認をとることが大切だと思う。

教員が頭ごなしに”怒り”を利用して生徒の意見などを抑制しなければ、建設的な対話を経て多様な在り方の学校になっていくと思っている。

(その時間はとられていない。)

 

しかし、今の現場ではそれができない・・・

一人の力では・・・

という場合もあるだろう。

現状、どう考えても同意できないルールや、寄り添えない価値観や指導があるけれど、どうも改善できないという場合はどう考えたらよいだろうか。

 

「全てを正しいものとして信じ、何が何でも我慢し、従順でいよう。」

この状態では、自分で考え・判断し・責任を持って行動することを放棄している。

でもこのようにしていた方が楽ではある。

だからこそ、この状態は問題として表出しにくい。

「どんなルール、文化、価値観にも意味がない。俺は俺でやりますから・・・。」

という状態では、「やってみて初めてわかることだってある。」ということが抜けている考え方かもしれない。

また、学校では同意もなく体験の場が用意され、知識が流れてくる。

これを全て意味がないと言い切れるのは、とりあえず一度はやってみた人だろう。

全ての事柄を無価値化すれば、その人にとって大事なことを取りこぼすことになる危険性がある。

少なくともとりこぼしていることがあるという自覚をもちたい。

 

同意も確認もなく、一方的なルールや価値感や指導に違和感がある状態が続くのは楽じゃない。考えるのが面倒になれば、その変な価値観に反応せず身を任せてしまいたくなるだろう。

それでも、自由でいられる部分もあると思う。

少なくとも”思考”、頭の中は自由だと思っている。

おかしいと思うことが大きく横たわって目の前を覆いつくしても、何がどうおかしくて、自分の違和感を明確にすることはできる。

どうしても、”やらされる”カタチになる場合は、とりあえずはやってみて、体験という貴重なものはもらっておく。その上で自分なりに咀嚼して、考え(仮定)をもっておく。

そういったことを考え、語れる仲間がいるなら、愚痴を3分に抑えてあとは、どうしたら改善できるかを話すといいかもしれない。

学校で体験したことが無駄かどうか、必要かどうか。

今後の人生の中で、確認していけるといいと思う。

部通信 part21

[俺(私)は先輩だぞ!!!?]

世の中には少なからず、”自動的”に「後輩は先輩を敬い、気を遣おうね。」という文化があるように思う。

お互いを知らないまま、自動的に始まる先輩・後輩関係において、「後輩”役”」は少し大変なイメージはないだろうか。(その逆もあるだろうけど。)

少しずつお互いの関係を深め、その人を敬いたくなれば、その人を先輩と呼ぶくらいが人の関係として自然なのかと思う。

信頼がベースにある先輩・後輩関係を構築する際には、少なからず後輩側が先輩を先輩だと思えなければ成立しないと思う。

逆に先輩が後輩に自らを敬うように言うことほど恥ずかしいことはない。

先輩は年齢や経験年数という条件で”自動的”になれるものではない。

先輩は敬われないといけないわけでもない。後輩の尊敬するポイントに引っかからないだけかもしれない。

あなたがもし、誰にも言われずコツコツと続けていることがあるならそれを淡々と続けていこう。

それは必ず誰かが見ている。誰かの評価や人の目を気にせず、自分が大切だと思うことを大切にしよう。

 

[僕(私)は後輩なので・・・]

後輩にあたる人たちは、最初がいろいろと難しい。気を遣うことが多いだろう。

しかし、後輩だからと遠慮ばかりしてもいられない。なぜなら、その集団への新たな可能性となるからだ。

その集団では当たり前だったことなどを一新し、古い体制を再構築するチャンスとなる。

新しい感覚や方法・価値観で集団を前に進むませることができる。

だから、言い方・やり方を間違えないように、主張し挑戦するといいと思う。

L’OCCITANE男子

https://jp.loccitane.com

L’OCCITANE(ロクシタン)は、女性に人気のコスメティックブランドだと認識している。

 

ある生徒の話。

夏はこんがり焼けて歯が白く、趣味は何かと聞けば、爽やかにサーフィンと答える。

そんな彼は、ロクシタンのハンドクリームを無造作に筆箱の中に入れていた。

 

私は贈り物としてロクシタンのハンドクリームを買いに行ったことがある。

高校生であのお店に入っていき自分のために買うのはなかなかハードルが高いような気がする。

サラッと当たり前のように買って使える彼の爽やかさに圧倒されたのでした。