中3-38
ミス:1
8:56
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丸つけという作業
丸付けという作業は、さっきまでの自分を書き換える作業のように思う。
正解した問題には丸を付ける。
丸を付けるということは、
「とりあえずはこの問題に対しての考え方は合っていた。」
という確認だと認識している。
(とりあえずというのも大切)
間違えた問題があれば、チェックをつけるだろう。
(〇との違いに判断がつけばチェックのカタチは何でもOK)
問題を間違えた時が大切で、
間違えたままにすることもできるが、何も手を付けなければ同じミスをすることが多い。
問題をみて見ぬふりをすれば、先延ばしにはできても解決はしない。
間違えをそのままにしてしまう心理には色々あるだろうが、
一つは問題をアタマで本来の負荷より遥かに大きく負荷を見積もってしまっていることだろう。
問題の解決に見通しがつかないのは不安だ。面倒だとも思う。
しかし、とりあえずは問題と向き合ってみて全体像をとらえようとすれば、アタマで広げ想像したほどの問題でないこともあるかもしれない。
二つ目は、間違えた問題をなおすことが今までの自分を否定する感覚に近いことだ。
千葉雅也さんの著書である「勉強の哲学」では、
「勉強とは自己破壊である。」と表現されている。
間違えた問題(今までの自分の感覚)を否定して書き換える。(自己を喪失する。)
無意識下での恐怖がミスをなおすわずらわしさにつながっているかもしれない。
そういった意味ではらくだプリントは、自分のペースで自己を喪失させられるツールかもしれない。
ミスと向き合うとは、自分と向きあうことにもなる。
いつもいつも、自分と向き合えるわけでもない。
喪失だけでなく、自分のペースで少しずつ前に進んでいける教材であると感じている。