gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

生きるとは生かされること part3

生きるとは、生かされること 著:平井雷太

から、内容を引用しました。

過去の記事は↓二つです。

gt-24o.hatenablog.jpgt-24o.hatenablog.jp

 

その人なりに誰でも育つ

育ちたい人しか育たないにもかかわらず,私は教育の現場に身を置き教育的行為を日々行っているのであるから、なんという無駄なことして過ごしているのかと思う。私がこんなことをしていることと、人が育っていくこととは無関係であってほしいと願っているが、ときには平井さんのおかげでと感謝されることがある。こんなときはただただ恥ずかしい。しかし、何も言われないと、あのときの俺のおかげでああなったのに少しは感謝してもいいんじゃないの、とすねている私もいる。こんな私を実に始末におえないゆがんだ人間かと思い、またそんな自分をどこかで妙にいとしくも思っている。

私が教育になぜこんなに深入りしてしまったのか、それはまさに学校教育の影響。尊敬できる教師と1人も出会えなかったおかげ。反面教師としての学校及び教師が、私の中に「育ちたい」という欲求を育ててくれた。徹底した教育に対する嫌悪が私の教育に向かわせたとも言える。そこで問題意識が私の中に育まれた。私が今まで生きてきて、この人のおかげと思う人が何人かいるが、その人には私を教育したという意識はさらさらない。私が勝手に影響を受けただけ。いつ・どこで・誰が・何から・誰から影響を受けるということを計算できないが故に世の中おもしろい。また、「育ちたくない」と思っている人はいないと思っているから、あえて「育ちたい」という気持ちにさせる必要も感じない。果たして、そんなことができるのかとさえ思っている。私がしていることは、ただ私のしたいことをしているだけ。毎日気づいたことを書くのも、私のため。しかし、これを見て私も書いてみようとやっている人が全国に百人以上はいると思うが、それは私と無関係。その人が勝手にやっているだけの話。「人はどんな環境にいても育ちたいと思っている人しか育っていかない」は、「人はどんな環境にいても育ちたいと思う思わないにかかわらず、その人なりに育つ」と言った方が、より私の気持ちに近いかもしれない。

[感想]

学校に勤めていながらも、ここに書いてある感覚は自分の感覚にかなり近い。

ここの書かれたことが私のベースにあるので、学校では学校の当り前に合わせつつ、可能な限りのこの感覚で人と接している。

特に子どもたちとは、このような感覚で接しているので、時よりさみしさを覚えることもある。笑

しかし、当然ながら学びたい人は教員にも子どもにもいる。その人たちと過ごす時間は楽しい。

そうじゃない人と過ごす時間がほとんどなわけだが、それを嘆いても仕方がない。

 

自分が書いているブログを子どもたちに紹介したり、

学校外で開いている学び場に来てくれたりしている。

自分のやりたいことをやって、それに共感してくれる人との関係を大切にしたい。