この本の読書会に参加しました。
開催場所はこちら!
https://terakoya-juku.com/blog/detail/20211222/
本会では1章を音読し、感想・疑問をシェアしました。
会を通じて印象に残ったのは、
贈与・偽善・自己犠牲・交換
これらの言葉のバランスについてです。
何箇所か引用してみます。
偽善・自己犠牲・交換について
「お金で買えないものが贈与である以上、与えた側はそこに見返りを求めることは出来ません。もし何らかの見返りを求めるのであれば、それは経済的に計算可能な「交換」となります。」
「〜人からよく思われたい、褒められたい、誰かに貢献することで自分が満足したい、という目的が透けて見える行為を、人は偽善と感じるのです。」
「プレヒストリーなき贈与は必ず疲弊します。 略 それを「自己犠牲」といいます。」
この辺の違いについて気になる方には面白い本かなと思います。(まだ1章しか読んでいませんが。笑)
贈与について(引用と解釈を同時に書いてみます。)
・贈与は相手が受け取ったと感じなければ贈与でない。
・贈与には(受け取るまで、贈与だったと気づくまでに)時間差がある。
「私たちが必要としているにもかかわらずお金で買うことができないもの及びその移動のこと。」
「私たちは他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを得ることができない。」
・一人では何も出来ない赤子として生まれ、育つ時点で贈与をもらってしまっている。
・既に受け取っている被贈与感(負い目)によって次なる贈与は行われる。
・贈与はつながりを生む。
・(私の思う)本質的なの贈与は、もらった人に返すことが難しい。
「贈与は贈与を産まなければ無力である。」
まとめ
本会から自分を振り返ると、教員という仕事柄、「誰かのために」と考えることが多い。
それでも、まずは自分が楽しいこと、自分がしんどすぎないこと大切にしている。
だから、偽善的な要素は少ないと思っている。
しかし、贈与は相手は相手が勝手に贈与だと受け取ることもある。
自分が思うより喜んでもらえたりするし、こちらがなんとも思っていなくても贈与だと認識されたりする。
また、迷惑かけまいと自分一人で頑張るのも大事が、打算なしに誰かに頼って頼られて、健全な負い目を感じる・感じもらうことができれば、贈与は連鎖するのではと思った。