第2章 なぜ認められたいか?
・承認を与えるのは誰か?
[親和的他者]•••••愛と信頼の関係にある他者(家族、恋人、親友)→親和的承認
[集団的他者]•••••集団的役割に当たる他者(学校の級友、職場の同僚)→集団的承認
[一般的他者]•••••社会的関係にある他者一般の表象→一般的承認
これはそれぞれ、
認められたい「ありのままの私」
認められたい「私の行為」
承認される価値の一般性
とも表現されている。
[自己分析]
他者との関わりバランスを見ると、家族との関わりが9年ほどない私は、親和的承認を受けることが少なかったように思う。
ただ、これは家族の形によるし、親和的承認を受けられない年齢になれば、集団的、一般的承認を受けるための努力をすれば良い。
ここ2年ではある程度の集団的、一般的承認を受けられている自覚がある。
ただこの努力が、早い段階で自分のキャパを超えるものであり続けてきた感もある。
特に、父親からの承認は能力がなければならない。
”俺の背中を超えてゆけ”
ではないが、そういうハングリーな環境が自分を構築しているのだと分析できる。
[追考]
家族の核家族化、社会との分裂により、
家族内でも、学校でも、会社でも、価値の絶対化が起きやすくなっている。
そして、目の前の価値に右往左往して、安易な承認を求め、正しさを失う。
価値の絶対化を防ぐのは、一般的承認であり、一般的価値の視点である。
より多くの人の承認を得られること、(特別な才能などではなく、とてもシンプルで隣の人をほんの少し幸せにすることをイメージしてほしい。)をただ当たり前にやっていくこと。
これが、家族・学校・会社でも大切なことである。
また、一般的価値に自分のかんがえや価値を揉んでもらうことだ。
集団的承認を得ることばかり考え、一歩外に出た時に自分がいかに価値ある人間か?と問われた時に何も答えられないようなことがあれば、それはとても辛いことだと思う。
目の前にある、目に見えない、確かにそこに、何と無く横たわっている幻想的なものに無思考に準ずることがいかに危険かを考えなければならないと私は思う。
part3(予定)へ続く。
おわり