第1章「認められたい」の暴走
・「空虚な承認ゲーム」
価値のある行為によって認められるわけでも、愛情や共感によって認め合うわけでもない。それは場の空気に左右される中身のない承認であり、以下、このような承認をめぐるコミュニケーションのことを「空虚な承認ゲーム」と呼ぶことにしよう。
認める・認められるという関係を持つことができる人間関係をどれくらい構築しているだろうか?
多ければよく、少なければ悪いということではないが、ある人間関係(集団)から認められることに固執して、右往左往するのは辛いことかもしれない。
自分の考えがあってもなくても、その人間関係からの承認のみに固執してしまう状態を本書では「空虚な承認ゲーム」と呼んでいる。
これは身の回りにも存在している実感があった。
[自己分析]
自分の場合は、自分の考えを曲げないタイプで、根拠なく自信を持つ傾向があるので、他者と合わせないと・・・と思うことは少なかった。
(今まで属した集団が相性が悪かったわけではなく、斜に構えて常にその集団から一歩外にいる位置にいようとしたことが今につながっていると思われる。)
自己愛の強さ(自己評価の高さ)、他者信頼感の低さもある気がする・・・笑
だから、自分のビジョンと一致した場合は、その集団から「認められたい」と思うし、
異質なものに出会うと興味が湧いて、その集団に認知されたいとも思う。
・自由と承認の葛藤
一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい。自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し、「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ。
自分の考えを、認めてもらう・認知してもらうためにはまずは、他者の考えを正しく認知することだ。(認める・認められるかは別問題。)
今までの私なら、私の考えが認められないならそんな集団には価値はない!くらいに思っていたこともあったので、なかなか集団にとけこめないこともあった。
しかし、やはり人はどんな集団の中にいても認められたいものだ。
そこで、大切なのは、”正しさ”だと思う。
自分の主観的な考えがどれくらい”正しく”て、
目の前にある集団以外からも、認められ・認知されるのか?
自分の”正しさ”具合を検証もせず自分の中だけでしまいこんでいては、
目の前の集団からも、目の前にいない他者からも認められるかどうかが検証されず、
結果的に、目の前の集団の価値が絶対化していまい苦しくなるのではないかと思う。
part2(予定)へ続く。
おわり