gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

2月課題本 「生きるとは生かされること」 part2

生きるとは、生かされること (平井雷太「教育エッセー集」)

 

 

gt-24o.hatenablog.jp

 

戦争とは?

 

「このグループで来ていても、毎日こぜりあいが起こっているんだから、戦争なんてなくならないよ」という高校生がいた。

「そうかなあ、僕はこぜりあいが怒っている限り、戦争に至らないと思うんだ。一対一の争いは決闘であって、戦争ではないからね。戦争は戦いたくない人まで巻き込む。一人ではかなわないからと徒党を組んで『自分たちの戦いは正義の戦いだ』とその正しさを主張しだす。これが戦争の構造であって、こぜりあいをしているから戦争になるわけではないと思うけどね」

と私。

私にとって戦争とは何かを考えさせられる。

 

この文章を読んで、いじめのことを想像した。

いじめは戦争で、ケンカは決闘なのではないかと。

A,B,C,D,EさんとXさんが相対している。

この時、

5人でXさんを同じ理由でやっつけようとしているなら戦争だし、いじめかもしれない。

5人のうちで1%でも、

「いやーバレたらまずいよな・・・」

なんてことを考えていたり、

Xさんに戦意がないのはもちろん、

AからEさんのうちに1人でも戦いたくない人がいれば、他の4人に戦いを強要されていることにもなるからいじめで戦争だと思う。(被害者は5人側の1人かもしれない。)

(現代においては、自分がなぜ誰かに攻撃しているのかが不明確なことが多いと思う。何となく周りに合わせていて、その何となくが物凄く恐ろしい。自分の中に物差しのない人間が集まり、小さな集団の中で価値が決定されていってしまう。何が良くて、何が悪いかわからない。自分のアタマで考えようとしない。そんな風に感じる。)

 

逆に、AとX、BとX・・・というようにAからEは全く面識がなく、

全く別の理由で、Xに戦いを挑んでいているならこれは決闘でケンカだと思う。

ビーバップハイスクールなんて見ているとちゃんと戦いの順番とか決めているし、タイマンなのか、団体戦なのかとか。相手がすでに瀕死状態だと「今のお前を倒しても意味ねーんだよ!」とか言って日を改めちゃったりする。笑 瀕死状態の敵を倒そうもんなら”シャバ僧”扱いされてしまう。笑)

 

人との間に摩擦はあっても、その理由や人間関係が明確であれば問題はない。

小競り合いと戦争の違いには敏感でいたい。

 

 

続く

これはペンです。

久しぶりに職場のことについて書いてみます。

今年は2年生の担任をしていまして、

すでに来年の就職のために動き出したり、

成績や授業時間数などの管理のため膨大なデータの処理に追われているところです。

(少しずつやっておけばいいものを・・・)

 

今年は、新たな授業スタイルに取り組みました。

良いところも課題も見えましたが、

生徒たちからの意見も聞きつつ、形を変えながら今日までやってこれました。

同じ教室で学んできた生徒(仲間)たちに感謝です。

 

しかしながら、社会に背を向けてしまう行動をとってしまう生徒もいたのも事実です。

多くの時間を取りました。

何事もない楽しい日々がどれだけありがたみを感じつつ、

同時にネガティブな印象の強い1年だったようにも感じていました

(過去形です。ペン一本で過去形になりました。笑)

しかし、私が言いたいのは誰が悪いとか、辛かったとか。

そんなことではないです。

 

このペンは、卒業式を明日に控えたある3年生から頂いたものです。

彼とは1年生の時に、3週に一度3コマ連続の実習の授業を担当していました。

月に1日その授業の日に、祝日があれば、月に一度しか授業では合わないことになります。

昨年、彼が2年生の時は、私は1年生の担任です。

昨年も今年も、授業は持っていません。

しかし、1年生の時に授業では、よく話しました。

そして、よく笑いました。

よく話し、よく笑う関係は今年まで続きました。

プロスピ(ゲームアプリ)一緒にやりましょうと言われ、

しぶしぶダウンロードすると意外に面白くてハマってしまったりしました。笑

 

そんな彼が、ペンをプレゼントしてくれました。

彼は、

「お世話になりました。」

と言いました。

 

僕は、戸惑ってしまったのが正直なところです。

言い方が悪いかもしれませんが、お世話をしたつもりは全くありませんでした。笑

 

それでも、彼はペンをくれました。

その彼の担任の先生から話を聞くと、

私は話題にしていることが時よりあったそうです。

 

自分が、頑張ってお世話をしている(してあげている)と思っていても、

それを相手がどう受け取るかはわかりません。

損得やギブアンドテイクの関係で終始することだってよくあることです。

 

今回の場合は自分が全く意図していなかったことが、

彼との関係の中で、何らかの反応が起きていたのでしょう。

 

話は変わり、自分の担当授業のことです。

1年間の授業の振り返りを担当2クラスの生徒たちに書いてもらっていたので、

それを眺めていると、嬉しいことがたくさん書いてありました。

私はその振り返りを書いてもらった授業は、自分だけで担当していたこともあり、

色々なアイディアを盛り込んだ授業でした。

なので、

半ば当然かな?

とも思っていました。(思い上がりです。涙)

生徒たちが書いてくれた嬉しい言葉の一つを噛み締めて、

素直に喜ぼうと思いました。

 

ペンと嬉しい言葉に

ありがとう!

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2月課題本 「生きるとは生かされること」

生きるとは、生かされること (平井雷太「教育エッセー集」)

2月はこちらの本を読んだ。

この本の著者は平井雷太さんだ。

開発者平井雷太について|どの子にも学力がつく らくだメソッド

私が取り組んでいる「らくだメソッド」の開発者で、東京の本部教室で「すくーるらくだ」を主宰している方です。

 

平井さんが塾を運営し、らくだメソッドを用いて教育と関わりながら書き続けた文章が教育エッセイという形でまとまっています。

らくだの第一歩・・・・・・・生きるとは、生かされること

らくだの第二歩・・・・・・・教えるとは、教えられること

らくだの第三歩・・・・・・・考えるとは、考えさせられること

らくだの第四歩・・・・・・・書くとは、書かされること

の4章で構成されています。

目次やタイトルを読んだときには、内容が想像できませんでしたが、

らくだメソッド(自分)と向き合い、ブログを書いていることもあってか、

読み進める中で、各章の言葉の意味がしみてくるような感覚がありました。

先ほどのも述べましたが、

らくだメソッドをやり(続け)、

誰かと関わり(続け)、

考え(続け)、

書いて(書き続けて)みることで、

自分では言葉にできなかったことが、

言葉になっているような印象を受けました。

 

らくだメソッドがどんなものかを書き現れているのではと感じる部分を引用してみます。

らくだの一歩

生きるとは、生かされること

愛するとは

中略

教育しようとすることで子どもも傷つき、私も傷つき、しかし、受験や補習塾で収入を得ることをせず、しかも教育と共存しながら生きる道を考えたとき、それがらくだになった。

太字の部分は、胸に突き刺さる一文でした。

大人と大人、大人の子どもの間に、対話なく、同意がない。

大人も子どもも自分と向き合うことなく(誰かがが鏡になることなく)、

大人が言ったことに対して子どもは思考しにくく、

(大人は思考せず、子どもに思考させず)時間が流れていく。

基準が大人にあり(あるように見え)、

子どもにない。(成長したい方向も度合いも子どもが決めない。)

・・・

挙げればキリなく続くこれらの痛みを一文から感じました。

ただ、平井さんは学校教育の否定はしていません。

学校がどんな場所かを正しく認識し、そこから何を抽出するのか。

何と向き合うのにも認識と事実を分ける。

学校も例外なく何かを抽出することはできるでしょう。

 

 

続く

研澄仮出

中1−31

ミス9

13:29

 

自分と向き合う時間をとると、

自分の調子が自分だけの影響でないことがわかってくる。

自分の選択は自分に返ってくるのだけど、

その選択には、他から多分な影響を受けているからだ。

他から影響をあまり受けずに自分が選べている領域のことと、

他からの影響を受ける中での自分が選んでいることを何となくでも分けてられると、

自分がやれることに限りが出てくるから少しながら楽になれる気がしている。

 

自分が変えられることなのでは?という仮定(問)が湧き出てきたなら、少しずつやってみてはどうだろう。

そうでないなら、諦めて、やめてみるのはどうだろう。

 

終わり

不自自作

中1−30(手書き2枚目)

寺子屋に行かなかったので、B4の紙に問題書いてやってみました。データをその日のうちにもらったのですが、職場で印刷するのを忘れてしまって2枚目の手書きです。笑 平井さんのすごさを体感(できているのかな?)中です。笑

12:25

ミス3

 

プリントをやると決めていて、

「”プリントをやりたくない”からやらない。」

という状態は自由を行使しているように見える。

しかし、

やると決めて”やりたくない”という自分の認識で、

(やると決めてやらなかった事実も同時に発生)

結果やれていないのは、不自由ではないだろうか?

”やりたくない”自由を行使することで変化をしないでいたいのかもしれない。

 

やりたい・やりたくない

に関わらず、

いつならできるだろう?

と試行錯誤することが結果として、

「いつでもどこでも”スッと”プリントをができる。」

という自由に向かう。

試行錯誤する過程では、なかなかうまくいかない自分と向き合わなくてはいけないし、自分が自分の思うように動かないから不自由に感じる。

だからこそ、”できない体験”が重要で、そこで自分と向き合うかどうかは鍵になる。

できないからと言って苦しむ必要はない。

なんだか自然と”できる”状態へ向かう道筋は皆違う。

自分が知らずに課せている思い込みを外し、

自分で自分を動かしやすいフレーミングを新たに課せていくことが”できる”に向かう一歩めのような気がしている。

 

終わり