gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

寺子屋塾と吉本隆明さんと「自分・あなた・みんな 」

現在、寺子屋塾中村教室へ通っています。

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メインの教材は、らくだメソッドを使用しています。

らくだメソッドについてや、日常の出来事に井上さんと対話をしながら、

本や記事を紹介されたり、他のワークに取り組みながら時間を過ごします。

 

そんな中で、何だかとても気になっている人がいます。

吉本隆明さんです。

www.1101.com

 

気になるのですが、吉本さんの本を読み解くは簡単ではないです。

気になっているのは、

「個人幻想」「対幻想」「共同幻想

という概念です。

 

こちらの本から一部引用してみます。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

対幻想論

p.176

フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を、集団とそれぞれの個人の関係とみなした。けれど、男・女のあいだの心は、個人の心ではなく対になった心である。そして、集団の心と対になる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が大きく登場するようになったのである。もちろんそれは近代以後の〈家族〉の問題である。

3つの幻想に関係しそうなモヤモヤを言葉にしてみようと思います。

主にコミュニケーションにおけることです。

 

「君たちは・・・」

「みんなもそうしてる・・・」

という言葉を言ったり聞いたりするときに、

「自分は誰に話しているんだろう。」とか、

「あの人は誰に話しているんだろう?」という違和感です。

その場にいる人でしか、対話は成立しないのに、どこにもいない誰かが持ち込まれる感じがすることに違和感を感じることがあります。

 

対での難しさとしては、

自分はまったくそういう気がないのに、

「自分はあなたと接している中で、こう感じたという事実がある。」

と言われてしまう場合です。

自分は一人しかいないし、相手も一人しかいない。

したがって、二人の問題は世界で一つしか問題で、

その人がそう感じてしまったら、間違いなくそうなのだ。

そして、自分以外に自分が存在しないのだから、自分以外の誰かと毎回、オリジナルな関係を築いていく上で、上記のようなことを言われることも少なくないだろう。

そんな時は、

「あーそうなんだね。」と正しく言っていることを聴き、受け止めること。

しかし、受け入れるかどうかは、自分との問題だ。

最終的には、自分がその人との関係を決めればいい。

相手を変えようとすることは、自分ができる範疇を超えたことだと思う。

負う必要のない責任を負わそうとされてしまうことが多いなぁとも感じています。

(被害者意識や当事者意識の欠落によるものなのかなぁと苦しくなります。自分を含めて身の回りにいる人たちと共に養っていきたい意識です。)

 

自分とのことでいえば、

対との関係や共同との関係の中で、

自分が及ぼすことのできる範囲に自覚的になれることの大切さを痛感しています。

人が一人でやれることには限界があるはずなのですが、

努力や意志でどうにかなるという言葉は世に溢れているように思えます。

(遠い昔には、「意志」という概念がなかったそうです。)

そう考えると、人は自然に対しても少し傲慢なのかなと。

 

一人の自分は、同時に複数の人に、まったく同じ意味で、言葉に紡げない。

(目の前の人を、他の誰でもない一人の人だと思えば言葉は変わってくるだろうと思うから。)

だから、同時とか一気に誰かに影響を与えていくことって簡単なことじゃない。

 

自分から見たら”人たち”は集団であったとしても、

その集団に属している一人一人からすれば、私も集団の一人なのだ。

その集団には自分は含まれていることを忘れてはいけない。

ならば、それを自分以外の人の集まりだと思うことから、

少しずつでも、一人の人の集まりとしてみていくことができれば、

自分ができることが増えていくように思います。

 

これらの苦しさは、

個人・対・共同の線を踏み越えることで起きるのでは?

と感じています。

長い時間をかけて考えていきたいテーマです。

未来デザイン考程 と 『「いまを生きる」と「自己受容」』

未来デザイン考程についての記事を書く中で、

(過去)・現在・未来という概念が出てきます。

特に未来と現在(今)についての関係と未来デザイン考程に触れていく中で感じたことを書いてみようと思います。

 

まずは、私が未来デザイン考程を学ぶ際のファシリテーターを務めていただいた、井上淳之典のの言葉をお借りします。

「いまを生きる」というのは、
過去も未来もすべて忘れ、
好き勝手、気ままに
生きる姿勢のことではありません。
 
いまという時間の中には、
過去も未来もすべてがあるんだと
常に意識できるということです。
 
そして、いまという時間を
真に生きている人は、
たいてい自己受容もできています。
 
でも、ここでいう自己受容とは、
素敵な自分を愛するとか、
自分を好きになることではなく、
まして、自分を「スゴイ」と
おもうことでもありません。
 
自分の好ましい姿だけでなく、
できない自分やダメな自分、
嫌いな自分もそのまま受けとめられ、
うまくいっている現実だけでなく、
うまくいっていない現実も同じように
きちんと直視できることです。
 
真に自己受容できている人が
なぜ、現実をそのまま
直視できるかといえば、
うまくいくとか、
うまくいかないとかという
判断自体を手放せていて
とらわれていないからです。
 
よって、「自分はスゴイ」でも
「自分はダメだ」でもなく、
自分をただの人間として
事実をありのままに
正しく把握できるのです。(2019.2.5) 

 

未来デザイン考程では確かに”未来”のために自分にできるアクションを考え、行動する力になってくれます。

しかしながら、

自分がどう生きたいか(在りたいか)?

を自己と対話する必要があるし、

現在の自分の状態を、正しく整理できなければ、

”未来”のことは考えられません。

”未来”なんてものはそもそも見える訳のないものだし、

見えなくても生きていけます。

もし、未来を不安に思うのなら、そのほとんどが

現在の自分の状態が見えないことによると思っています。

井上さんの言葉の中に

 いまという時間の中には、
 過去も未来もすべてがあるんだと
 常に意識できるということです。

とあります。

未来デザイン考程を利用し、

未来について考えようと試み、

未来について考えるステップを学んだ結果、

最も大切なのは、”今”でした。

 

終わり

未来デザイン考程 5:方法立案

未来デザインについての投稿をしています。

未来デザインについての紹介と、その未来デザインに出会った学びの場の紹介についての記事がこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

 

1〜6局面で構成されている未来デザイン考程の、 1〜4局面までの記事はこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

gt-24o.hatenablog.jp

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私は、1〜5局面を2周しました。

現在投稿しているのは、1周目のものです。

今回は第5局面の方法立案についての記事です。

実際のシートはこちら。

f:id:gt_24_o223:20190214234811j:plain

未来デザ 2018.7.13 方法立案.pdf - Google ドライブ (PDFはこちら)

 

第4局面(要所解明)では、未来に視点をおき、現在を見て(予悔)手を打つべき現状を可視化しました。

 

その現状に対して方法立案局面では、「方針」をいくつか決めます。

 

私感ですが、

この「方針」はこれまでの1〜4局面までを丁寧に積み重ねていけば、自然と浮かび上がってくるような感覚がありました。

「方針」に対して、いくつかの具体的な「方策」もデータとして出していきます。

「方針」は1〜4局面から導き出されたものなので、ころころと変えない方が良いデータに対して、

「方策」は1アイディアやひらめきで形は変わっても良いデータとなります。

 

・1〜5局面を終えて

仕事に対する見方に変化があった。

(色々な働き方があるので一概には言えませんが。)

(現在の)仕事は、自分の人生の理念を全て達成させる場でないということです。

もちろん、近いものを選んだ方がやりがいを感じられる場面は増えるでしょう。

(私は割と近いものを選べているなぁという実感があります。しかし、どんな仕事をすることになってもシンプルに自分の人生の理念と重なり合うように自分の力を使っていけばいいんじゃないか?とも思っています。)

ありきたりにはなりますが、仕事は相手がいて成り立つものです。

自分がいかに正しいと思うことでも、どれだけ学んでいてもそれを受け入れてくれる人がいなければ価値はありません。

仕事で全て達成しようとし、その環境に求めてしまいすぎると苦しくなります。

私の職場は学校です。学校は社会の縮図と言えるような場所ですから、子どもも大人も色々なチャレンジができる場であってもいいのではと今でも思っています。

しかし、現職場の現状を見ることも大切です。

 

仕事でできないなら他でやろう。

自分の能力や特徴が今の仕事場のすべての場面で活かされることなんてなかなかないでしょう。だから協力する。

自分の力が活かされそうな環境は仕事場以外だって探してみるとあるものです。

それを探すほど仕事で疲れるなら、ほどほどにすればいい。

(ほどほどが簡単にわかれば苦労しない。笑 けども、未来デザイン考程をやり続けてみて少しずつわかってきたような気がします。)

自分の能力を活かす場がないなら作ればいい。

教師塾という教員とそうでない人がともに学ぶ場所を作って、次で9回の開催になります。

第9回 教師塾 〜てつがく対話をしてみよう〜

この場と職場との大きな違いは、評価にさらされているかどうか?だと思っています。

評価のなく、参加者それぞれが自分の感じたことを自分の糧にしていけるよう場ではないかと。

今後は少し違った、学びの場を作れたらと考えています。

また皆さん、アイディアを頂ければと思っています。

 

未来デザイン考程の記事はこれにてひと段落とさせて頂きます。

進展がありましたら、2周目についての記事もまた書こうと思います。

未来デザイン考程 4:要所解明

未来デザインについての投稿をしています。

未来デザインについての紹介と、その未来デザインに出会った学びの場の紹介についての記事がこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

 

1〜6局面で構成されている未来デザイン考程の、 1〜3局面までの記事はこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

gt-24o.hatenablog.jp

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私は、1〜5局面を2周しました。

現在投稿しているのは、1周目のものです。

今回は第4局面の要所解明についての記事です。

実際のシートはこちら。

f:id:gt_24_o223:20190211152740j:plain

https://drive.google.com/open?id=1vNTG1 (PDFはこちら)

 

理念設定では、この先も変わらない生きる指針を、

現状把握では、今の現状を正しく具体的にみて、

未来デザイン・未来予測では、

現状を踏まえ、好ましい現状と気になる現状が、これからどうなるか?

という視点で、未来について考えました。

 

私感では、先のことを考えるにしても、理念を設定し現状を把握してから考えることで必要な情報が絞られる感覚がありました。

 

第4局面の要所解明では、第3局面で予測・デザインした未来に視点をおきます。

その未来の視点から、現在をみたときに、「これがこのままになってるぞ・・・」

という現状を探し出します。

 

デザインした未来と現状とのギャップを生み出すものは何なのかを探し出すわけです。

ですから、「〇〇が△△のままになっている。」というよなデータが出てきます。

 

後悔というのは、現在に視点をおき過去を見ることで起こります。

この要所解明は、未来に視点をおき、現在を予め悔いることをすることから、

「予め悔いる」⇨ 予悔(よかい)と表現するようです。

 

次回は方法立案です。

(やっと具体的な行動を決めるところまできました・・・笑)

選感鋭化

中1ー28

9:43

ミス:3

 

・近況

数字や問題の組み合わせによっては、アタマの使い方のくせのようなものの影響からか、どうしても間違えてしまうものがある。

でも、ミスを繰り返せば必ず止められる日が来る。

プリントをクリアできるのだから。

そのミスが気になるなら、そのミスが起こらないようになるまで、時間を気にせずやると決めてもいい。

使い方は無限大だ。

私の場合は、合格したら次のプリントに行きたくなる性分なので、手持ちにクリアしたプリントしかなく、そのプリントをやることになると、なんだか気が抜ける。

しかし、最近はそのプリントこそきっちり向き合って大切にやることで見えてくるものもあるような気がしている。

2枚ずつ持って帰るのを、3枚にしてもいいかもしれない。

 

・テーマのわけ

選ぶ感覚が鋭くなっている気がする。

未来デザインとらくだを同時進行で行なっていることも理由の一つかもしれない。

選ぶことに時間がかからなくなった。

というより、以前よりもアタマで考える前に直感で選ぶことをするようになったのかもしれない。

「アタマで考える」というより、時間をかけて情報を集めて判断すると表現した方が良いかもしれない。

時間をかける事柄と、直感に任せてみてもいい事柄にメリハリが出てきたのかもしれない。