gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

結果もゴールも目的もない学び

テスト点のためだけの勉強は点数を取ることが主目的。

点数を取るための勉強が悪いわけではない。情報を編集したり、記憶する能力、見通しを立てる能力もついてくるだろう。

点数を取るため”だけ”だと少し心配だ。

点数が目標点に乗らなかったりすれば、その学びは途端に意味のないものになりかねない。

「テストでは点数が取れなかったけど、こんなことを知れたし、前に学んだこととつながる部分もあったなぁ〜」

くらいが自然な気がする。

テストで点数を取ること=勉強

だと少し寂しい。

(とは言っても、自分が自分らしく学んだことが点数化され評価されてしまえば「学んでみようかな〜」なんてなかなか思えないと思う。)

 

目的、結果、ゴールがなくても学んでいいし、

学んでいくと見えていなかったものが見えるようになってきたり、

新しい視点が見つかってくる。

心配が心配ではなくなり、叶えられない理想が近づいてくることもあるかも知れない。

 

まずやってみよう。

おわり

愛知工業大学 講話 2018

f:id:gt_24_o223:20181017195217j:image

出身大学の教職課程で学ぶ学生と対話(対話をしたかったけどできなかった?)をしてきました。

これで4年目になりますが、毎回、30分という時間で何を知りたいのか、何を聞きたいのかを読み取ろうとするのですが、なかなか出来ず…

 

数人の学生が質問をしてくれたおかげで知りたいことにピンポイントで応えることができた気がします。

今回は約40名の学生の文章にもあらかじめ目を通してレポートにコメントを入れさせて頂き、その内容についても質問がありました。

(どの文章も読み応え抜群でした。)

問われると気づけることがたくさんあります。

感謝です。

 

4年目にきて自分に変化があります。

何を話すか?何を伝えるか?

ではなく、

何を知りたいのか?

に視点が完全に移っているということです。

 

話す内容は決めずに、

情報を流しつつ、

質問しつつ、

応えつつ。

必要な沈黙もありました。

 

喉のところまで出かかっていた質問があったなら、

この環境でなければ、(例えばカフェとかなら)

聞けた質問があれば聴きたいなあ。

 

このブログを見てくれている学生がいるなら語る会やりたいなあ。

 

おわり

旅 10/ 12(金)〜14(日)

f:id:gt_24_o223:20181016183522j:plain

先週末に広島へ行ってきました。

写真は厳島神社です。

1日目は市内へ、2日目は宮島、3日目は広島平和記念資料館へ行きました。

観光へ行くと、その土地で観光客を相手に働く人がいます。

その土地で育ったのかも知れないし、外からきたかも知れません。

宮島の商店街では、多くのお店で、もみじ饅頭を手作りしていてその工程も公開していました。

(少し話が大きくなります・・・)

「人生は自分で切り開いて行く。」とは言いますが、

両親が毎日、住む家の一階で丹精込めてもみじ饅頭を作っていたら、

物心ついたときにはそれに関連するお手伝いなんかもしているわけで。

人生の序盤で知らぬ間に自分という存在が形成され始めている。

そこから家でも出るのもありだし、どう感じるのは自分の感覚でOK

情報も得やすい時代だから、島から出るかどうかとかも自分で決めればいい。

 

ただ、

「美味しいですね^^」って言われたり、

「どちらから来られたんですか〜?」ってな話が嫌いじゃなければ、

そのまま島にいたりするんだろうなって思うし。

一旦島外で働いて、島に恩返し!

とかも思うのかなと。

流れに身をまかせるのと、自分で考えてどうこうしようとするのは、

半々くらいのバランスがいいなぁと思います。

 

3日目広島平和記念資料館を訪れたのは2回目です。4年前に一度いきました。

同行した人が行ったことがないこともあり今回も寄りました。

 

ここに来なければ知れないことがあると思います。

1度見ているだけあって、少し億劫になる部分もありました。

見るのは怖いですが、

一度もここに訪れないのもある意味怖いことだとも思いました。

原爆ドームを見て、資料館を見て、もう一度原爆ドームを見ました。

同行者が、

「資料館を見る前と後では、(原爆ドームの)見え方が違う。」

と言っていたのが印象的でした。

 

資料館の本館がリニューアル工事中です。

東館で展示物は見られますが、本館の工事が来春に終わるようです。

ご予定される方は工事と開館に関する情報も確認することをお勧めします。

 

おわり

本当のことを、そのままの意味で

言葉には当然のごとく、意味が存在する。

しかし、意味とは別に

”良い言葉サイド”、”悪い言葉サイド”というような住み分けがあるようにも思う。

 

A:「君はナルシストだよね。」

と言われて、

B:「そうだね。私はナルシスト気質だと思う。」

とすんなり会話が終わる事は少ないように思う。

B:「え?!?!?私のどこがナルシスト!?」

とBが気になることが多いように思う。

「ナルシスト」という言葉に良いイメージがないのだ。

 

言葉をその意味どおりに伝えるには、

良い悪いとかではなくて・・・という前置きがいる。

でもその前置きさえも凌駕するほど、言葉にはべったりとイメージがくっついている。

 

距離感がある人ほど、また歳を取ればとるほど

直接的な表現を避けながら言葉をかわすことがあるように思う。

それは相手への思いやりだったり、気づいていくれることを待ったり。

”含みを持たせる”という表現でもいいかもしれない。

私はそういう言葉のチョイスが下手くそだ。

最短距離での、直接的表現をすることが多い。

それも、自分で考え抜いた意味を一般的な言葉にのせてしまうこともしばしば。

しかし、

こういう言葉のチョイスは、

真意であることが伝わりやすい。(気がしている。笑)

先ほど述べた言葉へこびりついたイメージを無視して、

その言葉の意味そのものを伝える効果がある(ような気がしている。)

こういった言葉を言ったら、こう辛くなるかも・・・と前置きというかフォローも直接的な表現で入れてしまう。苦笑(フォローになっていない・・・)

 

「こうやって言ったら、この人はこうなってくれるだろう。」

という計算のある言動も少ないように思う。

なぜなら言葉に対する嘘は、

わかる人にはわかるし、自分自身が打算的な発言に気持ち悪さ感じてしまうからだ。

ただ、その人の真意を聞けないというのは、

自分がその程度の人間であるということにもつながるから、

そこは相手の立場に立つことと、その人との関係性に敏感でいたいと思う。

 

おわり

unlearning

unlearnin 

既得の知識・習慣を捨てること。環境変化の激しい現代社会を生き抜くために、過去の経験にとらわれないよう、意識的に学習知識を捨て去ること。

unlearning(アンラーニング)の意味 - goo国語辞書 より

「学ぶことによって自らの特権を解体し、他者に対する偏見を解きほぐす」

本橋哲也

“unlearning”のすすめ | 成城大学 より

これは大切だ!と思った瞬間から時間のたった気づきを引きずることで、

現在の自分の盲点になるかもしれない。

純粋な足し算のようなイメージの学びで、

自分ががんじがらめになることもなるようなら、

丁寧に忘れ、手放すことで視界をクリアにしたい。

また、現在の盲点を知らせてくれるのはいつも他者。

 

「記録するかわりに記憶する。」

 「知的生産の技術」著:梅棹忠夫 より

今日では、ただ捨ててしまうのでなく、記録がしやすくなったこともあり、忘れやすくなっているように思う。

 

自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということをわすれてはいけない。

 「知的生産の技術」著:梅棹忠夫 より

何かを意識すれば、何かが見えなくなる。

見えなくなっていたことに目を向けると、意識していたことを忘れる。

過去と同じキーワードを思い出し意識するとしても、

その人が変化を続けていれば視点が変わっているから、

全く違った意味のキーワードになる。

 

 

知識や体験を新たに取り込むことと、

忘れる事は繰り返すが、

平面を行ったり来たりしているだけでは決してない。

 

おわり