gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

限界を知れば

限界を知ること。

自分でできること・二人でできること・友人たちでできること・職場でできること。

立場や専門性を考えれば、できること・やっていいことの限界はどこかにある。

その限界を知った時がゴールではなくて、スタートなのだと思う。

万策尽きた時がゴールでなくスタート。

自分にはなにができて、すでに何をしていて、何が足りないのかを知ることが限界を知ること。

自分・自分たちの限界を知っているからこそ、助けや協力を求められる。

 

おわり

問うことは自分の中に

生きていれば、

「これはこのままでいいのだろうか。」

と問うことがあると思う。

問題提議といっても良いかもしれないが、

問題という言葉には、あってはならないというマイナスなイメージがついているような気もする。

だから、問題提議の問題は悪いものではなく、その問題を解決しようする姿勢や、

新たな問題を見つける視点に価値があるとすれば、

問題提議も、問い続けることも悪いことではないと思う。

 

しかしながら、

学校では自分の中に問題を見つける前に、

雪崩のごとく授業の中で(教科書に用意された)問題が押し寄せる。

それも教科書の問題が解けないとそれ自体が"問題視"される。

問題を他者が用意するものになっている。

 

だから、

自分で自分を見つめ、

何が問題なのかを自分の中に問うことをする姿勢や視点がイマイチ育たない。

当事者意識が育たない。

心の物差しが育たない。

http://gt-24o.hatenablog.jp/entry/2018/05/25/235729

 

本当に問題なのは、問題があることに気づかないこと。

気づいても認められないこと。

 

自分の中を覗くのってこわいよね

 

おわり

今日の対話 part7

テーマ1

「世の女性の多くは自分よりも背の高いパートナーを望んでいるにも関わらず、なぜ高いヒールを履くのか。」

前提: 男の意見ばかりで拉致があかない。そんなに女性と話したり、付き合ったことがない。

 

テーマ1.5

「背が自分より低い人は無理であるという人をトンデモなく好きになってしまったらどうするか?」

1.ドライブデートをする。食事もドライブスルーで済まし、車から降りることなく家まで送る。

2.キャンピングカーを購入して、キャンプに出かける。キャンプでは、スニーカーになるためハイヒールを防止できる。

 

コメント

テーマ1と1.5を話したいと言った生徒は身体が低い。少なくともわたしには全くない視点だった。本当に面白い。

笑い話の後には、小学生の頃にホルモンの量が少なくて成長に支障があることをみんなの前で話してくれた。

皆からのいじりに優しさが出てくると嬉しく思う。

 

テーマ2

「ナルシストはなぜ生まれるのか?」

前提:ナルシストとはどう状態か?=手越祐也さん

意見:自己評価と他者評価の差がある。自己評価と他者評価が一致していても、自分でカッコ良いと思っている節を存分に前面に押し出している。

女の子は、自分以外の女の子を可愛いと形容することは多いが、男の子は、自分以外の男の子をイケメンだと形容することが少ない

 

テーマ3

「クラス室長の非認知能力について」

http://www.shogai-soken.or.jp/htmltop/toppage.files/non-cog2018.pdf

→ クラス室長は伝える力も、感じる力もあるし、成績では上位に入る。コミュニケーションもとれる。(という位置付け)しかし、気づいてしまうが故に思いやりに欠ける発言を特定の人にだけしてしまうことについて、集まったメンバーが何を思い、その発言をされる子がどう思っているのかを共有した。

 

コメント

多くの生徒からの意見が室長一人に集中してしまった。

自分がどんな特性があるかを共有する間もなく、一人についての話になってしまったので、その他の生徒に発言の責任の薄さが目立った。

自分も話すことばかりになり、改善が必要だ。

 

おわり

信用と信頼 part2

信頼し、信頼される人とのつながりがない状態ほど辛いものがないと思います。

周りが敵に見えたり、周りがどうでもよく見えたり。

自分のやること・なすことに喜んだり、叱ってくれたりする人もいないような状態です。

 

悪いことを、”悪い”とわかっていてやってしまうのは、他者とのつながりの弱さからかもしれません。

信頼し、信頼される人の存在の有無は、その人の人生に影響があると思います。

 

信頼し、信頼されることを体験する時、どちらが先か。

信頼されることのが先だと私は思います。

誰かの信頼が必要です。

 

じゃあ、信頼し続ける側になろうと。

過去の嘘をないものにはできないにしても、

その嘘に対しての責任はその人が自分で取ればいい。

その嘘の責任を他人が取れるわけがないのだから。

 

課題の分離をした上で、

その人が、その人の責任を取ったのなら、

「そんなことするやつ、信じられるわけない・・・」

となるのもわかるのですが、

 

無条件に興味と信頼を寄せていくことが、

私たちにできる最大限で最小限のできることではないかと。

期待もするかもしれないし、

「またか・・・」

と思うかもしれない。

でもその期待を膨らましたのは私であるから、

期待をつくりだしているのは自分であって、

その人は悪くない。

私たちにできる最大限で最小限のできること

をただやっていく。

これは生半可なことではない。

けど、価値がある。

 

おわり

信用と信頼 part1

信用関係は信じられる条件がお互いに平等に揃っている場合に発生する。

私は大東建託さんに仲介していただいて部屋を借りています。

・CMを見たことがある。

・HPがある。

・多くの店舗数がある。

などの理由で、

大東建託さんを信用し、「月◯万円で部屋が借りれます。」という契約で部屋を借りています。

大東建託さんも審査の結果、私がお金を払えることを判断したのでしょう。

これは、信用関係です。

大東建託さんが私に思いやりのある人であるかどうかは見ていないでしょう。

また、私が一歩的に大東建託さんを信用していても、信用関係は結べないでしょう。

 

では、

信頼関係とはどういったものか。

信頼関係は信じる条件が全くないままに信じ合う関係だと考えています。

なので、一方的に信頼するという構図もありえます。

友人関係においては、長い付き合いで過去の経験を信用して、現在を信頼しているということもあるかもしれません。

Aさんが「金を貸してくれ!」となにふり構わず周りの人間に声をかけている人間は信用も信頼もできないでしょう。

しかし、その彼が野球の試合時間だけ人格が変わったように三振を取りまくる選手として味方になれば、野球の技術にだけは信用(信頼?)するかもしれませんね。笑

 

つづく