学ぶことを時間的に、環境的に自意識で区切ってしまうと、学ぶことの本質から離れていく気がしている。
学びは遊び、
学びは苦しみ、
学びは楽しみ、
学びは生活、
休みも、仕事も学び。
学んでなくても学んでる。
学んでると言ってしまえば学んでる。
学んでいるという状態をさらに分かりやすく定義してみたいとも思う。
おわり
学ぶことを時間的に、環境的に自意識で区切ってしまうと、学ぶことの本質から離れていく気がしている。
学びは遊び、
学びは苦しみ、
学びは楽しみ、
学びは生活、
休みも、仕事も学び。
学んでなくても学んでる。
学んでると言ってしまえば学んでる。
学んでいるという状態をさらに分かりやすく定義してみたいとも思う。
おわり
常識は18歳までにかき集めた偏見の集まりだ。
などという言葉があります。
(18歳で終わらず、かき集め続けてすがり続けることもあるやもしれませんが。)
自分や他者を傷つけてしまうような絶対的な常識は持たない方が良いと思う。
ただ、何でもあり(非常識)であってよい訳じゃない。
非常識だと周りにいる人に迷惑をかける。
「常識に囚われるな!」と、自由を主張して非常識な行動をとるとすれば、それは常識をよく知っていることになる。
非常識というのは、一度も常識という感覚を意識したことがない状態だと思う。
ならば、常識を意識しながら、
常識なんて本当はなくて、どこにどんな常識が潜んでいるかをよく見る姿勢(無常識)が良いんじゃないかと思う。
おわり
考えるときにはあってもいい。
学ぶにもあっていい。
勢いをつけるために、そう名前をつけてもいい。
空を見上げて嬉しく思うことってステキだと思うけど、
そうじゃない場合で顔を上げるときにもあるといい。
だけど、
生きるために必要かと言われたらそうじゃない。
でも私はわりと好き。
夢
おわり
私たちは身を置く環境から少なからず影響を受けます。
それは適応するために(生きるために)本能的な反応だと感じています。
影響は受けるものの、選択するのは自分です。
自分で選んでいることには変わりません。
しかし、
自分一人で全てを決められるわけではないとも思います。
自分で何かを選択するとき、
身を置く環境からの影響が0ではないからです。
大切なのは、
選択を、
環境のせいでもなく、
自分のせいでもにもしないことです。
あるのは、選択したという事実だけだからです。
どんな環境からどんな影響をうけていて、
自分にどんな特徴があるか、どんな人間か。
それをよく考えることです。
そして、
とても大切でかなり難しいことですが、
選択した事実(結果)を、
できる限りフィルターを通さずシンプルに捉えて、受け入れることです。
本日、大掃除中に頭をぶつけました。
ジャンプしたら5cm上に天井がありました。
天井に怒っても、自分に向いても仕方がないです。
たんこぶを冷やすことが大切です。
例が下手ですが、そういうことです。笑
おわり
タレスやアナクシマンドロス、アナクシメネスといった古代ギリシアの哲学者たちは、一般に「自然哲学者」と呼ばれている。文字通り、自然はいったいどういうメカニズムで動いているのか、その原理を、“神話”ではなく観察を通した“思考”によって明らかにしようとした人たちだ。
哲学(philosophy)の語源は、philia(愛)とsophia(知)。古代においては、知を愛し探究することは、なんでも哲学とされていた。だから人びとは、今なら「自然科学者」と呼ばれる人たちもまた、「自然哲学者」と呼んでいたのだ。
現在、情報は溢れかえり、確かな情報をえることにも時間がかかる。
想像するに、相当な不確かな環境の中で生きていた人たちのなかで、観察を通して、何とか考えてぬいて、原理をみつようとした人たちもまた哲学者と呼ばれていた。
いつの時代も頭が火が出るくらい考える人がいて、その人たちは周りに話が合う人が少なかったんじゃないかと想像します。笑
学び考えていく過程では、自分なりに真理に近づいていくために仮定をたてまくる。
わけのわからないことも何度も考える必要がある。思考の枠をとっぱらうために。
思考や言葉には無限の自由がある。
この自由を楽しみつつ、より多くの人のため、身近な人のためになるように”思考”を仕上げていくことが大切だと思っている。
いわゆる“事実”は、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、決して“事実”として認識されることがないからだ。
たとえば、天体法則という“事実”が存在するのは、僕たちがこの法則に“意味”を見出しているからだ。
太古の昔から、人類は農耕を行うためにそのメカニズムを知る必要があった。あるいはその“美”に魅せられて、天体を観察しつづけてきた。
同じように、人体のメカニズムを僕たちが知っているのは、それが僕たちにとって意味あるものであるからだ。健康や長寿に“意味”を見出しているからこそ、人類はその謎に挑みつづけてきたのだ。
もしも僕たちが、こうした“意味”のアンテナをもっていなかったなら、天体法則や人体メカニズムといった“事実”は、僕たちにとって存在することさえなかっただろう。
ここで思いついたのは雑草です。
急に雑草の話をしてすみません。笑
雑草とは、
● 人間にとって不利益になる植物
水田や畑の雑草を放っておくと作物が健全に育たず、収穫量が減ったり、品質が悪くなったりします。また、雑草は害虫の住みかとなったり、人間の活動のじゃまになったり、景観を悪くしたりします。こういった人間の活動に不利益を生じる植物を総称して雑草と呼ぶという考え方です。
● 人間の活動によって絶えず攪乱される土地に生えてくる植物
人の活動する場所では絶えず土の表面が動かされています。例えば作物を栽培するために土を耕したり、道路や建物を造るために土の表面を削ったりします。そうすると、人手の入らない高山や原生林の中、原野などに生育する植物とは異なった種類の植物が生えてきます。こういったものを総称して雑草と呼ぶという考え方です。
いずれにしても、雑草は、栽培している訳ではないのに、人間の周囲に勝手に生えてきて、時として人間に嫌がられながらも、人間のそばに好んで生活する植物だと言えるでしょう。
まさに、私たち人の意味付けによって定義されているものの代表かなと。
当たり前ですが、チューリップは雑草ではないわけです。
しかし、チューリップに稲を枯らす毒があったとしたら、「チューリップは綺麗だなー」と持てはやされることはなかったでしょう。笑
田んぼの近くに咲きまくった時には、「イネカラシ」とかいう名前で雑草の仲間入りをさせられていたかも知れません。笑
私たちの生活や、視野に入ってくるものには興味が湧き、私たちにとってどんな影響を及ぼすのかを知るたくなる。
ただ、まったく人の目にとまらないものには、人は意味付けをしない。
だから、科学的にも定義する必要もない。
記事の中に出てくる、「意味の世界」が先で、「事実の世界」が後であるというのはこういうことだと思う。
おわり