この1年、
① 子どもたちの主体性を伸ばす(主体性に任せる)こと
→任せると伸ばすでも変わる気がする。
② 選択と、それにともなう責任を意識してもらうこと
③ 「出来ない体験」から何を学ぶか。
「出来ない」を受け入れて、そこをスタートにすること
④ 自分が自分のことをどう思っているか(どう評価しているか)が重要であること。
などなど。要するに、
「やるのはあなたたちです。主役はあなたたちです。選択し、どうなるか考えましょう。やってみましょう!」
と伝え続けてきました。
すると、私はどれだけお節介焼きだったかを思い知りました。
「教える」という言葉はあたかも「与えること」のように思えます。
しかし、子どもたちの主体性に目を向けていくと、
その以前に目の前の子どもたちは、それを欲しいのか?
と考えるようになるわけです。
現状、目の前の子どもたちは、勉強(学校側が決めた学ぶ内容)に興味を示す子どもは少ないです。(名南工業高校の特徴でもあります。)
ここで私は悩みました。
やらせるのか、そのままの彼らを受け入れるのか。
私は受け入れてみました。
すると、彼らの良い部分が見えてくる、見えてくる。
頑張っているかどうか。点数がとれているかどうかは、私の物差しでした。
だから受け入れてみて、子どもたちの求めるものを考えてみるという姿勢は大切だと感じました。
子どもたちが勉強に興味がないことを私は受け入れました。
でもそれは、捉え方によっては、”諦め”にも似たような気がしています。
私は、
主体性の尊重による、子どもたちの関心と本音を受け入れること
と
私の中での、”諦め”に近い感覚の差を自分の明確に分けることが出来ていません。
この線引きは、子どもの数だけあるように思います。
線引きをどこでするのかを、私自身は迷いつつも、1年を通して、ぶれない姿でいることは重要だと考えています。
明日も迷って、そして、書き残す。積み重ねていきます。