三つの記事からそれぞれ文章を抜粋しました。
まず「気づかせる」の主語は、「気づく本人」ではなく、そうした状態を外部から「意図的」に促したい「第三者」ですね。ここで大切なのは「気づかせたい」のは「第三者」です。そして、それは「意図的な行為」であるということです。
しかし「気づかせる」という「他動詞的な用語=第三者の意図を感じる言葉」の内部には、「自ら気づく」という「本人の自発的な行為」が内包されています。つまり「気づく」のは「本人」なのです。しかも気づくは「自発性=非意図的」に基づきます。
ということになりますと、まとめるとこうなります。
自ら「自発的」に「気づいちゃう」のは本人。
しかし、
それを「第三者」が「意図的」に仕掛けていって、あたかも「自発的に本人が気づいちゃう」ような状態をつくりだすのが「気づかせる」という行為です。
えーい、ややこしい。
つまり、気づかせるという言葉は、
「本人」と「第三者(他者)」
「自発性」と「意図性」
の交差した場所にある用語です。
ひとつ、あなたが「よかれ」と思ってつくった「学びの機会」は、「本来届いて欲しいひと」には届かない
ひとつ、あなたが「よかれ」と思ってつくった「学びの機会」が届くのは、本来、そうした機会が必要ではない層(自ら動ける層)である
結論、あなたが「よかれ」と思ってつくった「学びの機会」は、「動ける層」と「動けない層」の格差を拡大する
結局、
動くひとは、動く。
動かない人は、動かない
彼らのことを考えながらも、
戦うのはいつも自分だなと思います。