gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

関わり方を決めるのは自分

こちら紹介するのは、立教大学中原淳先生の記事です。

三つの記事からそれぞれ文章を抜粋しました。

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「主体的になれ!」と第三者に命令して、第三者が発揮する<主体性>とは、本当に求められる「主体性」ではない

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まず「気づかせる」の主語は、「気づく本人」ではなく、そうした状態を外部から「意図的」に促したい「第三者」ですね。ここで大切なのは「気づかせたい」のは「第三者」です。そして、それは「意図的な行為」であるということです。
  
 しかし「気づかせる」という「他動詞的な用語=第三者の意図を感じる言葉」の内部には、「自ら気づく」という「本人の自発的な行為」が内包されています。つまり「気づく」のは「本人」なのです。しかも気づくは「自発性=非意図的」に基づきます。
  
 ということになりますと、まとめるとこうなります。
  
 自ら「自発的」に「気づいちゃう」のは本人。
   
 しかし、
  
 それを「第三者」が「意図的」に仕掛けていって、あたかも「自発的に本人が気づいちゃう」ような状態をつくりだすのが「気づかせる」という行為です。
  
 えーい、ややこしい。
 
 つまり、気づかせるという言葉は、
  
「本人」と「第三者(他者)」
「自発性」と「意図性」
  
 の交差した場所にある用語です。

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ひとつ、あなたが「よかれ」と思ってつくった「学びの機会」は、「本来届いて欲しいひと」には届かない
  
ひとつ、あなたが「よかれ」と思ってつくった「学びの機会」が届くのは、本来、そうした機会が必要ではない層(自ら動ける層)である
  
結論、あなたが「よかれ」と思ってつくった「学びの機会」は、「動ける層」と「動けない層」の格差を拡大する
  
 結局、
  
 動くひとは、動く。
 動かない人は、動かない 

 

彼らのことを考えながらも、

戦うのはいつも自分だなと思います。