gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

楽紙と私

高校15

ミス5

時間:ノーカウント

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高校教材に入ってから、1枚を半分にして時には時間も計らずにプリントに取り組んでいます。

一枚目は計らずに二回に分けて解く。

二枚目は測って二回に分けて解く。

三枚目から1枚単位で。

これは方法論ではなくて、

「今日、プリントに向き合うにはどうしたら?」

と問うて、自分で自分のルールを作り直していくようにしてたらこうなった感じです。

1日1枚をやるという原則があるのはこのためなのでしょう。

原則に縛られず、原則を無視しない。

自分の納得感も優先しつつ、教材本来の力や効力も無視しない関わりができるのはらくだプリントの凄さかもしれません。

オンライン自習室 part1

本日の午前中に担当科目にて、オンラインで自習室を開いてみました。

 

年度始めの出校日に、年間の学習ペースや、評価方法、考査の出題範囲・出題比率、評価方法などの計画を記載したレジュメ、学習の手引きやノートのまとめ方などの資料も渡すことができました。

それによって、生徒が自習するのに困らないような環境をできる範囲で整えました。

しかし、通信環境も様々ですので、学習の流れや、教科書の内容についてなどの学習者の質問にのみ答えるという姿勢で行いました。

 

実際には「○○がわからないのですが、、、」という質問はなく、無音で時間が過ぎていくので、音声が途切れていないかなどが心配になりました。笑

Googleドライブに学習内容の解説画像をアップしているので、それをみながら学習を進められたのではないかと思います。

次回は金曜日に行います。

通常授業に入っても、全担当クラスへ週に1時間はオンラインで自習室を開室できそうです。

この先、カラダは元気でも出校できないという場合にも対応ができそうです。

こう考えると今まででもできたことだと内省しつつも、色々と試すことのできるタイミングに環境を整えていこうと思います。

隠してもわかるよね。

隠そうとするのは、子どもも大人も同じだけわかりやすい。

大人が隠そうとしていることは、他の大人はわかっているけど言わないだけであることが多い。

大人が隠そうとしていることは、子どもにはわかってる。言葉にできないことがあるだけでわかってることが多い。

大人が隠そうとしすぎると、自分でも隠そうとしていることに気づけなくなる。これはとても怖いことだ。

 

子どもは隠してもほとんどの人に分かる。

でも、その子どもに興味がないと隠そうしていることは見えてこない。

だから、大人にも見えないこともある。

これは大人みんなで防ぎたいこと。

そっとしておいていいこと、

少し時間が経ってから言ってあげるといいこと、

言ってあげなくてもいいこと色々ある。

 

でも隠したいことあるよね。

本当に大切なことを、適切なタイミングで言ってもらえるひとでありたいね。

部顧問 覚書part3


gt-24o.hatenablog.jp

部活動が再開されそうである。

昨年度の1年間、部活動は参加したい人だけが参加するものだと言い続けてきた。

この価値観は言葉にすれば当然のようにみえる。私も当然だと思っているがこの前提が部員ほとんど浸透していないから私が言わなければならない構図になっている。説明をすればほとんどの生徒は納得するが、言い続けなければならない環境・感覚が根強く残っている。

どんなモチベーションで参加しても、しなくても問題ない。

しかし、選手からは部活動に登録されていることが就職に有利に働くのではないかという意見がある。部活動をしない生徒も、登録だけはさせて欲しいという意見がある。

それらを私はジャッジせず、そのまま受け止めている状態だ。

4月にこれらの意見を皆で対話をする予定だったが休校でそれも叶わなかった。

 

2ヶ月の休校や総合体育大会の中止、オリンピックの延期などから、

学校に登校するという当たり前の様々なことを自らの責任で自分で選ぶことが重要視されることになる。

部活動も同様だ。

大会がなければ、部活動に登録だけされていることとかもだけど、

部活動の参加自体も当たり前じゃなくなる。

どこのどんな大人(部顧問)が何を言おうとも、

自分の頭で考えて伝え、自分の権利は自分で守らなければいけない。

 

こんな状況であるからこそ、シンプルなことが大切になると思う。昨年度からシンプルに部活動を運営してきたつもりだ。

6月の活動からは、さらに様々な要素を多角的に見て、自分の責任で自分選ぶ必要がある。

こうなるとやっぱり純粋にバレーボールが好きじゃなきゃ活動できないんじゃないかと思う。(損得の基準はこういう時は弱い)

また、皆で話し合える機会があるなら、話し合うことから始めようと思う。

無強制無放任

すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

 

学習者には、

自分が学びたい時に学びたいことを学ぶ権利

自分が学びたいことを誰かから学ぶ権利

自分が知らなそうなことを誰かから学ぶ権利

自分が知らなそうなことを、自分で見つけて学ぶ権利

学習者の権利は主張しようとすれば人によって色々と出てくると思う。

学習をする機会を均等にするというのが、

誰にも同じタイミングで同じ質の機会を与えることになってはいないか。

どれくらいの学習者が、この機会を均等にして欲しいと思っているだろうか?

 

①学びたい時に学びたいことを学びたいものから学ぶことが、

学びに繋がることもあるが、

②学ぼうと思っていなかったことを、学ぼうとは思っていなかった時に、学ばされるとは思わなかったものから学ぶこともあることも事実だろう。

しかし、学びが②に傾きすぎていないだろうか。(前提ともいっていいかも。)

それよって、学びを届ける側に過度な責任がかかっている。

学習者が望んだ時であれば、学びたい内容を指定されていようがいまいが、学びの質は高まると思う。

①と②が学習者に選べてもいいと思うし、

それが難しいなら、半々くらいの時間ならいいのになと思う。