gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

信用と信頼 part2

信頼し、信頼される人とのつながりがない状態ほど辛いものがないと思います。

周りが敵に見えたり、周りがどうでもよく見えたり。

自分のやること・なすことに喜んだり、叱ってくれたりする人もいないような状態です。

 

悪いことを、”悪い”とわかっていてやってしまうのは、他者とのつながりの弱さからかもしれません。

信頼し、信頼される人の存在の有無は、その人の人生に影響があると思います。

 

信頼し、信頼されることを体験する時、どちらが先か。

信頼されることのが先だと私は思います。

誰かの信頼が必要です。

 

じゃあ、信頼し続ける側になろうと。

過去の嘘をないものにはできないにしても、

その嘘に対しての責任はその人が自分で取ればいい。

その嘘の責任を他人が取れるわけがないのだから。

 

課題の分離をした上で、

その人が、その人の責任を取ったのなら、

「そんなことするやつ、信じられるわけない・・・」

となるのもわかるのですが、

 

無条件に興味と信頼を寄せていくことが、

私たちにできる最大限で最小限のできることではないかと。

期待もするかもしれないし、

「またか・・・」

と思うかもしれない。

でもその期待を膨らましたのは私であるから、

期待をつくりだしているのは自分であって、

その人は悪くない。

私たちにできる最大限で最小限のできること

をただやっていく。

これは生半可なことではない。

けど、価値がある。

 

おわり

信用と信頼 part1

信用関係は信じられる条件がお互いに平等に揃っている場合に発生する。

私は大東建託さんに仲介していただいて部屋を借りています。

・CMを見たことがある。

・HPがある。

・多くの店舗数がある。

などの理由で、

大東建託さんを信用し、「月◯万円で部屋が借りれます。」という契約で部屋を借りています。

大東建託さんも審査の結果、私がお金を払えることを判断したのでしょう。

これは、信用関係です。

大東建託さんが私に思いやりのある人であるかどうかは見ていないでしょう。

また、私が一歩的に大東建託さんを信用していても、信用関係は結べないでしょう。

 

では、

信頼関係とはどういったものか。

信頼関係は信じる条件が全くないままに信じ合う関係だと考えています。

なので、一方的に信頼するという構図もありえます。

友人関係においては、長い付き合いで過去の経験を信用して、現在を信頼しているということもあるかもしれません。

Aさんが「金を貸してくれ!」となにふり構わず周りの人間に声をかけている人間は信用も信頼もできないでしょう。

しかし、その彼が野球の試合時間だけ人格が変わったように三振を取りまくる選手として味方になれば、野球の技術にだけは信用(信頼?)するかもしれませんね。笑

 

つづく

 

”集団”は存在するか

私は学生の頃から、

「◯◯◯◯ということがありました。誰がやったか知らないけど、こういうことがあるのは残念だ。気を引き締めて生活してくださいね!」

みたいな話が嫌いだった。

その何かを起こしたのは、自分ではない誰かか、誰か達である。

全く自分に関係のない話で注意喚起をされねばならないのか。

と思っていた。

今は、こんな話をするかもしれない立場にいるわけだが、無根拠での注意喚起に意味はないと思っているのでしない。

 

集団がそこにあるような感覚で集団に向けて話すと、

なんだか誰にも話をしていないような感覚になる。

話される側になれば分かりやすいかもしれません。

私は”集団の一員”ではなく、一人の人間なんですよね。

なんか蔑ろにされている気がするんです。(私だけ?笑)

 

人が集まると集団に見えますが、

”集団”というものは実は存在せず、

個が集まっているという感覚で集団の前に立つと、個人がしっかり見れる。

色んなことが楽になるなぁと思う。

 

おわり

"まずは体験する"場所

学校は他者との関わりを体験できる場だと思う。

しかし、

他者との関わりを円滑に行うようにならないといけない場所ではない。

体験した本人が得意なら関わればよいし、

苦手なら程々でよい。

苦手だけど関われるようになりたいなら私たちは支援すればよいと思う。

 

協調する人がいて、

一人で黙々とこなす人がいていい。

みんなでやらないといけないこと

と、

誰とでも、一人でもやっていいこと

がいいバランスであるといいのになあと思う。

少なくとも授業はそうしていく。

 

おわり