学校にもよるけど、
僕の関わってきた、関わっている学校は、
学ぶ内容・時間・教えてくれる人・ともに学ぶ人・環境が決められている。
(全て提示されていて選択できることも少ない。改善や改革を学び手が行うことも少ない?)
これらを色々と決めたい・選びたい学び手にとってはつらい。
椅子に座って人が話す知識(内容)を耳で聞いて覚えたり、
ノートを模写したりするのも、
この二つ以外の方法のが覚えやすかったり、認識しやすい人にとってはつらい。
この二つが強要されることさらにがつらい。
学校で学ぶことが辛い人もそうじゃない人もいる。
それはOK。
我慢して学校に通うのも自由だし、学校を辞めることも行かないことも自由だから。
(自由とは簡単に言えてしまうけど、小学、中学、高校にはほとんどの人が行くから、行かないって選択をしていいことも知らず、多くの選択肢から選べるかどうかも知らずに、すでに身動きしにくい環境にいて、”学びの形”が決まってしまっていたりしてしまうことは少なくないと思うからやっぱりつらい。)
「つらいけど、その中でどう楽しめるか?」
を模索するのが私は好きだし、ここにこそ大いなる自由があると思っている。
ここもその人次第。
じゃあ、教員は何をする人なんだろうか。
豊かな学びを生み出したい・得たい人を手助けする人なのかなと思っている。
学びを生み出す手助けする人は少なからず、学びを生み出せばどんな豊かなことがあるかのかを体感していて、軽くオススメできたりサポートできる方がいい。
学校で授業や本の紹介などするサークルができた。
楽しく、緩やかにアツイ。
今日は授業を見てもらえた。
[本日の学び]
「個人と集団、どちらに目を向けるかによって授業の構成やシステムに影響が出てくる。」
おわり