私は最近まで、「主体性」という言葉をよく使っていました。
子どもたちが「主体的」でいられる環境を作りたい。
「主体的」になれる題材を・・・
と授業なども考えてきたつもりでしたが、
「主体性」って何?
と問われた時に説明できない自分がいました。
「主体性」を説明する際に使われる言葉も一度、解体してみたいと思います。
・能動的
→静かに黙々と脳内は動いているかもしれない。アウトプットしていないだけで。
誰かと話しをする時なんかも、話したくてしょうがない人が自分の周りにたくさんいる場合は聞き役(相槌打つだけ)になるし、
聞き上手な人がいる場合は話し続けてしまったり。
しかし、聴く側の秀逸な質問から会話が始まるなら、聴く側のが主体的?笑
・自ら考える
→自ら考えるとはいっても、一人で考えていても同じところをぐるぐる回ってしまうことはあります。自分である程度の意見がまとまったら他者にぶつけたり、問うことも大切になります。
・自己選択する
→どんな環境下にいるか、どんな性格か、どんなタイミングだったか。
それによって選択は大きく違う気がします。自分でした選択がベストな選択かどうかは、いつどう結論づけるかでも変わってきます。何となく他者の様子を伺っていたら時が経ってしまったなんてことはよくあることかなと。
選択は自分だけでするものではないとも思います。
・言われる前に動ける
→「言われる前動ける」というより、「言われる前に(私のイメージした通りに)動ける」というのが正しいかもしれない思っています。(日々、反省)
電車で席を譲ろうかな?どうしようかな?一駅で降りるっぽいなー?
とか思っていたら自分の降りる駅についてしまって、立ったら「ありがとう」と言われてしまって、自然の流れに沿って行動したのに、何か「主体的」に動いたっぽくなったりすることありませんか?(実話)
「主体的」かどうかは、
・環境
・他者との関係
・行動として表面化するか
・こちらが意図したように動いたか
によって何とでも判断できてしまいます。
それに、主体的であることが全面的に”良い”ことという前提で書いてきました。
「主体的」であることはそんなに重要なのか?
終わりが見えませんこの辺で終わりましょう。笑
おわり