gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

任せてブーたれる

世界レベルで見て、日本ほど便利で快適な国はないでしょう。快適という意味については、それぞれの価値観によって多少の幅があるかもしれませんが、物質的な面ではまずそう断言して構わないと思います。

では、考えてみてください。そんな便利と快適を支えている日本人あるいは日本社会の行動様式や思考方法は、いったいどんなものなのでしょうか?

それはズバリ、<任せて文句を言う>、そう<任せてブーたれる>態度です。

身近なところでは、電気やガス、水道などのライフライン、毎日の食べ物、テレビの番組、子どもの教育だってそうでしょう。蛇口をひねるだけでいつでも出てくる水道の水が、どこからどうやって送られてくるか考えている人は、日本ではほとんどいませんし、わが子のことも学校や塾に任せっぱなし。

中略

その一方、文句やクレームをつけることにも、熱心で、スーパーで買ったキャベツに青虫が入っていたといっては店にねじこみ、子供の成績が下がったといえば塾に文句をつけ、有権者の街灯インタビューを聞くと、「政府には景気をどうにかして欲しい」「いまの首相ではダメだから誰か他の人を」などとシレッと答えている。

「 きみがモテれば、社会は変わる。」

宮台教授の<内発性>白熱教室 著:宮台真司 より引用

 

ブーたれるくらいしか、方法がないと思い込まされている部分はある。

”個”として思考し、行動する人間へ。

 

おわり

先生はえらい  著:内田樹 引用と感想

 

大きな勘違いからこの本を読みはじめた。

昨今の”先生”の扱われ方に問題点を指摘し、”先生”を褒めてくれちゃう本なのではないか。笑

という邪推からこの本を読みましたが、何度も何度も良い意味で裏切られるような本でした。

スッキリとモヤモヤが同時に襲ってくるような内容をいくつか引用してみます。

もしあなたが「人生の師」 と出会った後もまだ「先生と出会ったのは、まったくの偶然であった」と思っていたとしたら、残念ながら、あなたが出会ったのは先生ではありません。

 

 ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生との間には巨大な「クレヴァス」があります。

 

私にはどうしても理解できないもの、つまり私の知が及ばないもの、私にとっての「無ー知」(non-savoir)の核のようなものが、先生の中にはある。そういう印象を与える先生のことです。

「先生の中には、私には決して到達できない境地がある。」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震えるような敬意を感じます。

こちらの引用を読んで気になった人は、読んでみるといいかもしれない。

 

 

この先は読み終わっての感想と気づいたことを少し長めに書いていく。

 

先生はどんな人でもなりえる(学びの主体者次第)けど、定量的で、内容がパッケージ化されたものを流し込むように教えるのは先生じゃなくて良いのかもしれません。

 

先生自身が想定していないことを学びの開かれた学習者は学んでいく。

究極的な学習者は、教壇にカカシが立っていても学ぶことができる。

 

それはリアルな話ではないので、もう少し。

 

先生の発信すること、

発信されてしまっていることを、

学習者は受信したり、してしまったりする。

学習者は簡単に100パーセント理解したと思わない方がいいし、(大切にはしていい。)

学習者に理解して欲しいからといって、

先生は、

あなたはここまでわかっていれば、わかっているよ。

と伝えてしまうことは、

学びの無限性と、学習者の主体性に壁を作ってしまうことにつながるかもしれない。

ということは、

先生はすべてをわかっていてはつまらない。

先生も謎(世界)を追い求めている途中であり、

学習者も謎(世界)を追い求める。

学習者が”分かった”と思ったことは学習者特有のものであり、(大切にしよう。×2)

先生の発信したこととイコールでなくて良い。

先生は、発信したことはそのまま受信されることがないということをよくよく理解した上で、

発信されてしまったことと、受信されてしまったことを大切にする。(ビビるけど。)

 

先生は、先生でいようとするよりも、

学習者に先生にしてもらえばいい。

でもそれには、謎を追いかける姿勢は常に必要だし、

その姿勢は先生の主体性でもある。

この謎を共に追いかけることが、共育といっていいのかもしれない。

 

おわり

全員100%満場一致 なんてない

みんなが納得できそうな答えやアイディアを日々考えます。

細かく話し伝えることもあります。

しかし、

1つの行動を起こすとき、動きにくい。

言葉を発するとき、すぐに出てこないことがあります。

 

理由として、

自分が意図した想いや狙いが、私のしたイメージ通りに伝わると思ってしまいがちだからです。

こういえば、こう伝わるだろうと思い込んでいるわけです。

何パターンも、いろんな視点を考えますが、それは一人で考えたものに過ぎず、そもそもがとんでもなく違う存在である他者にどう伝わるか、どう感じとられるかなんて、こちらで全てを想定は出来ないわけです。

 

それは学ぶ側の主体性についてもそうで、

どんなレクチャーをしても、

どんな言葉を使っても、

伝わり方は違い、学び取り方は多様です。

 

だからといって、狙いや伝えたいことがないようではいけません。

そこを擦り合わせて、何か生まれたものにこそ価値があると感じます。

 

表面化する副産物に振り回されないために大切な視点だと思います。

 

おわり