gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

2018.2.28 寺子屋にて

小4-39

11:39

ミス3

らくだがワナをはっていた。笑

"できる"と"できない"めぐりめぐってやってくる。

できると思えばできていないし、

できないと思ったときこそ何かある。

主体性を深める中で、

主体性に意識が向いていないとき、

受動的になっている。

主体的である自分と、

受動的である自分を体験させてもらってる感じ。

その体験を通して、自分の姿勢に目をつけることで、主体性の螺旋を登って行くことを感じられる。

面白いなー笑

 

おわり

共通と固有

人同士なら、人ならではの共通することってあると思う。

冬場布団からなかなか出られない。

とか、

季節の変わり目は体調を崩しやすい。

とか。

(個人差はありますが。笑)

これらは僕たちが生物学的に人類(ヒト)だからこそ。

本能的に似通る部分があるんだろうなと。

 

だけど、

容姿、考え、性格とかってとんでもなく違う。

 

子どものたちの話を聞くと、

ジャニーズの〇〇くんカッコいい!

とか、

あの映画に出てた、〇〇さんは一番可愛いとか。

っていう話を聞く。

 

芸能人は誰が好きか?

と聞かれると、名前が覚えられない私はいつも答えられない。

 

そして、決まって、

ジャニーズの〇〇くんと私は似ている!

とか言ってしまう。

 

もちろん、子どもに怒られる。笑

 

そして、私が

目と鼻と口と耳の位置とかそっくりじゃないか!キラキラ🤩

 

と言うと、ウンザリされる、、笑

 

人と似通っている部分を無理に目立たせようとか、変えてみようとかして、自分を表現しても限界がある。

人が考え出した方法でしたか変えられないからだ。

 

なら、みんなが、

「そこはみんな違うよね!」

ってことならどんだけ違っても面白いと思う。

 

違うことが良いってわけじゃないし、

無理して他人と違うことはしなくて良い。

 

共通と固有の線引きが出来る人は、程よく面白い。

おわり

失敗の内容

自覚はしている。

でも同じミスを何度もしてしまう。

こんなことはないだろうか。

 

自分はよくよく分かっていて、見えないようにして自分のミスに向き合っていないのか。

自分がミスだと思ってるからミスなのか。

ミスが起きる時にはやっていなくて、

ミスが起きない時にはやっていることがあるのか。

何が抜け落ちているのか。

思考の癖か。

疲れているのか。

作業量が多いのか。

極度のめんどくさがりなのか。

 

 

全部なのか。笑

 

おわり

2018.2.26 暖かい日

小4ー38

6:35

ミス4

半分くらいであれ?割る数が順に大きくなってる感じか?と気づき、

中盤こえて、もしや同じ問題か?と疑問を持ち、

最後の1/2ラッシュで確信に変わった・・・笑

 

明日は合格できそう。

 

おわり

「主体性」「主体的」の再考

私は最近まで、「主体性」という言葉をよく使っていました。

子どもたちが「主体的」でいられる環境を作りたい。

「主体的」になれる題材を・・・

と授業なども考えてきたつもりでしたが、

「主体性」って何?

と問われた時に説明できない自分がいました。

 

「主体性」を説明する際に使われる言葉も一度、解体してみたいと思います。

・能動的

→静かに黙々と脳内は動いているかもしれない。アウトプットしていないだけで。

誰かと話しをする時なんかも、話したくてしょうがない人が自分の周りにたくさんいる場合は聞き役(相槌打つだけ)になるし、

聞き上手な人がいる場合は話し続けてしまったり。

しかし、聴く側の秀逸な質問から会話が始まるなら、聴く側のが主体的?笑

 

・自ら考える

→自ら考えるとはいっても、一人で考えていても同じところをぐるぐる回ってしまうことはあります。自分である程度の意見がまとまったら他者にぶつけたり、問うことも大切になります。

 

・自己選択する

→どんな環境下にいるか、どんな性格か、どんなタイミングだったか。

それによって選択は大きく違う気がします。自分でした選択がベストな選択かどうかは、いつどう結論づけるかでも変わってきます。何となく他者の様子を伺っていたら時が経ってしまったなんてことはよくあることかなと。

選択は自分だけでするものではないとも思います。

 

・言われる前に動ける

→「言われる前動ける」というより、「言われる前に(私のイメージした通りに)動ける」というのが正しいかもしれない思っています。(日々、反省)

電車で席を譲ろうかな?どうしようかな?一駅で降りるっぽいなー?

とか思っていたら自分の降りる駅についてしまって、立ったら「ありがとう」と言われてしまって、自然の流れに沿って行動したのに、何か「主体的」に動いたっぽくなったりすることありませんか?(実話)

 

「主体的」かどうかは、

・環境

・他者との関係

・行動として表面化するか

・こちらが意図したように動いたか

によって何とでも判断できてしまいます。

 

それに、主体的であることが全面的に”良い”ことという前提で書いてきました。

「主体的」であることはそんなに重要なのか?

 

終わりが見えませんこの辺で終わりましょう。笑

 

おわり