正しいか間違っているか、
良いか悪いか、
かっこいいかダサイか。
人の数だけ価値観はあるけど、
まず君はどう思ったのか。
そしてあなたの目の前の人はどう思ったと言っているか。
君と、君の目の前の人がそう感じたことは、疑いようのない事実だとしておこう。
そしてその事実から、君と君の目の前の人がどう感じるか。これを繰り返すことからだと思う。
正しいか間違っているか、
良いか悪いか、
かっこいいかダサイか。
人の数だけ価値観はあるけど、
まず君はどう思ったのか。
そしてあなたの目の前の人はどう思ったと言っているか。
君と、君の目の前の人がそう感じたことは、疑いようのない事実だとしておこう。
そしてその事実から、君と君の目の前の人がどう感じるか。これを繰り返すことからだと思う。
[自分とみなの認識や感覚を擦り合わせる]
私が、自分を含めたチームを見るときの視点の一つを書いてみます。
① 西尾もみんなも気づいて(感じて)いること
② 西尾は気づいているが、みんなが気づいていないこと
③ みんなは気づいているけど、西尾は気づいていないこと
④ 西尾もみんなも気づいていないこと
この4つに分類してみるようにしている。
これはジョハリの窓を応用した考え方だ。
そして、これはみんなの視点になると、“西尾”の部分が“自分”に置き換わる。
だから、部員の数だけの視点が存在することになる。
②を少なくするには、勇気をだして自分の感じていることを伝えることだ。ただ、自分の認識がそのまま他者に伝わるかは別問題だから、伝え方は工夫が必要。
③を少なくしていくには、自分がどんな動きをしているのだろう?と日頃から自分を観察するクセを付けつつ、他部員からの声掛けに耳を傾ける姿勢が大切だと思う。
②と③が少なくなるってことは、①が増えていくことにつながる。
そして④を見つけるには、全部員が時々、自分を含めたチーム全体を見ようとする姿勢が大切だ。
感覚や認識のすり合わせを行うときに、何が正しいか・誰が正しいかを争うと話が変わってきてしまう。
だから、すり合わせを行うかどうかの同意をとることも大切だ。
感覚や認識をすり合わせるというのは、他人のプレーになどに、自分の認識や自分の感覚でアドバイスを送ることではない。
まずは、その人の認識と感覚がどんなものかを想像したり、その人に確認をとるといい。(色々と質問してみる。これ超大事)
その上で、その人の感覚に近い表現に練り直す。そしてその人が必要であるならアドバイスを送ってもいい。
高校の同級生の結婚式に出席させてもらった。
素敵な式だった。
その友人とは高校野球で3年間共に過ごした。
「彼とは3年間、仲が良かった。」
と言うと彼が困るほど、私は高校生のとき(今も変わらず…?)接しづらさのある人だと思い返される。
野球に対しては情熱はあったが、周りと調和が苦手で、自分の考えを押し通すタイプ。
また、自分の考えを部員に押し付けることも多々あった。(これが良くない、、、)
野球の実力は伴わないけども、モチベーションは高く・理想も高い。
かと言って、誰より努力し、結果を求めたかというとそこまでの厳しさを自分に向けることはできず、理想と現実のギャップに勝手に1人で苦しんでいた。
(今も仕事や私生活でうまくいかない時はそのパターンである。)
彼は優しく、分け隔てなく誰ともコミュニケーションの取れる人物だった。
それでも。私が明らかに間違っている時はバシッと言ってくれる人物だった。
そのおかげで、何とか野球を続けられた。
2人でコツコツと打撃練習を行い、お互いの理想の打撃を体現した喜びは今も忘れられない。
コツコツと続けた努力の成果を自分の能力と過信して、練習をサボり打てなくなったこともあった気がする。笑
私は高校3年間の彼しか知らない。
それから10年経って、彼がどんな人物かと司会者の方に問われた。
急にコメントを求められたが、私は彼にお世話になった分、話す内容には困らなかった。
私は新婦の方のことはわからないが、共に過ごした3年間から想像するに新郎である友人との結婚は間違ってないだろうと思うと伝えさせてもらった。
今後ともお幸せに。
学習へどうしても取り組めない。
カラダが動かないという生徒さんの話を聞いた。
その中で思ったことを書こうと思う。
その生徒さんは自分で取り組むことが学習を進める第一歩であることは感じている状態。
学習に対して試行錯誤し、自らと向き合い、ペーパーテストの点数も上がっている。
しかし、自分の意識と行動が一致しないことに苦しさを感じているようだった。
彼を見て、今までの環境による"勉強"に対する無意識領域の刷り込みがあるように感じた。
(誰かが悪い・学校が悪いとかが言いたいのではない。)
なぜ?と考える前から、
学校へはいくものであるという前提が大きく横たわっている。
教室に人を集めて、
時間割という時間的拘束、
授業規律という方法的・身体的拘束、
批評家者という精神的拘束を受け続ければ、
カラダがう動きにくくなるのも無理はないのかなと思う。
体も心も大きく不安定ではない状態で
勉強をしよーとか、したくないとか思考せず、
当たり前のようにカラダが動き、学習に向かう状態があってもいいはずだと思う。
(私にとってはこれが理想なのかもしれない。)
ふら〜っと、ボケーっとスマホをいじるように教科書を読んだって何ら不思議ではないはずなのに、
授業や学校以外で、これをするにはエネルギーが必要(な気がしている。)
この不思議な学習への大きな壁がなぜできるのか?
どうできてしまうのかを、学校にいる生徒さんも教員も見てみようとして欲しいと思う。
私の職場(私の勤める学校)では、学校でのルールと、社会でのルールに違いがある。
学校を卒業すれば今後、一切気にすることがなさそうなルールも存在する。
ブラック校則なる言葉や映画が出てきていることからも、学校と学校外とのルールや文化にギャップがあるのは一般的と言ってよさそうだ。
校則だけでなく、学校ごとに細々とした文化があるだろうし、教員ごとに価値観の違いから言うことも違うだろう。
学校ごとに違う校則・文化・指導などを学校では多くの場合、強要されるのではないだろうか。
校則をすべて知り、独自の文化や指導にすべて同意して入学することなどは不可能だろう。
入学して生活してみてわかることがあり、それに同意をしかねるなら行動しよう。
ルールを変更・悪しき文化の改善には生徒主導で動くのが改善の一番の近道だ。
それと同時に、教員は生徒の意識や価値観に関心を向け、同意や確認をとることが大切だと思う。
教員が頭ごなしに”怒り”を利用して生徒の意見などを抑制しなければ、建設的な対話を経て多様な在り方の学校になっていくと思っている。
(その時間はとられていない。)
しかし、今の現場ではそれができない・・・
一人の力では・・・
という場合もあるだろう。
現状、どう考えても同意できないルールや、寄り添えない価値観や指導があるけれど、どうも改善できないという場合はどう考えたらよいだろうか。
「全てを正しいものとして信じ、何が何でも我慢し、従順でいよう。」
この状態では、自分で考え・判断し・責任を持って行動することを放棄している。
でもこのようにしていた方が楽ではある。
だからこそ、この状態は問題として表出しにくい。
「どんなルール、文化、価値観にも意味がない。俺は俺でやりますから・・・。」
という状態では、「やってみて初めてわかることだってある。」ということが抜けている考え方かもしれない。
また、学校では同意もなく体験の場が用意され、知識が流れてくる。
これを全て意味がないと言い切れるのは、とりあえず一度はやってみた人だろう。
全ての事柄を無価値化すれば、その人にとって大事なことを取りこぼすことになる危険性がある。
少なくともとりこぼしていることがあるという自覚をもちたい。
同意も確認もなく、一方的なルールや価値感や指導に違和感がある状態が続くのは楽じゃない。考えるのが面倒になれば、その変な価値観に反応せず身を任せてしまいたくなるだろう。
それでも、自由でいられる部分もあると思う。
少なくとも”思考”、頭の中は自由だと思っている。
おかしいと思うことが大きく横たわって目の前を覆いつくしても、何がどうおかしくて、自分の違和感を明確にすることはできる。
どうしても、”やらされる”カタチになる場合は、とりあえずはやってみて、体験という貴重なものはもらっておく。その上で自分なりに咀嚼して、考え(仮定)をもっておく。
そういったことを考え、語れる仲間がいるなら、愚痴を3分に抑えてあとは、どうしたら改善できるかを話すといいかもしれない。
学校で体験したことが無駄かどうか、必要かどうか。
今後の人生の中で、確認していけるといいと思う。