gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

今日明日

中2-11

ミス0

9:03

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今日の分は今日だけしか進めない。

 

今日の進み方は今日しか体感できない。

というのは、

今日の環境(世界)や体調(自分)は今日しか体験できない。

だから、

今日できなかったことはまとめて明日できるわけではないだろう。

 

「今日やることは今日やり、明日やることは明日やる。」

というのは、

今日でしか体験できないことは今日に、

明日でしか体験できないことは明日にやるということ。

 

おわり

 

思いやり

プレイヤーだと狭い視野になりがちだけど、

その角度だから見える・感じるものがある。

全体を見渡す人は、雰囲気や流れを感じることができる。

 

プレイヤーは自分に余裕があって初めて、全体を見ようとすることができる。

簡単なことじゃない。

全体を見る人は視野を広くもたないといけないけどたまには、プレイヤーになってみるといいと思う。

 

思いやりをもつということは、

優しい言葉をかけることではなく、

時には我慢や痛みともないながらも、

立場の違う人の目線に立つことだと思う。

 

おわり

場の公平さと主張力

何かを決める時、

その場にいることは重要だと思う。

(その場に呼んでほしいとその人が言っていることが、前提)

 

その場にいない人になんの問題もなくデメリットがないだろうと思っても、そこにいる人には、そこにいない人のことはわからない。

99人の同意が取れていて、

1人いないだけでも、

その1人がその場に参加したい場合、

その話し合いで決められたことは、

100人でのことではない。

1人の意見がその場をひっくり返し、

議論をやり直さなければならない一つの視点をもっていることもある。

そこにいる人たちで何かを決めるとはそういうことだと思う。

 

それぞれが自己都合を解決しようとする場合、その場にいない人が悪いなんて言われたくなくば、そういう人たちであることにも敏感であることも大切かもしれない。

察知して、必死に話し合いの場を設け、不正があればハッキリと伝えなくてはいけない。

 

公正・公平な場はぼけっとしていると捻じ曲げられることもある。

待っていてはいけないこともある。

そしてこういうことがあっても、

怒るのではなく、教訓としよう。

 

おわり

責任と言葉とそれ以外の方法

ミスをして、

「集中していこうぜ!!」

「もっとこうしなきゃ!」

おそらくそんなことは、本人が一番わかっているだろう。笑

 

チャレンジ中の人に、チャレンジしていない人が思いやりのかけらもない声かけ・求めてもないアドバイスや評価。これらはネットの普及の共に溢れかえった。

 

目の前に当の本人がいてもそう言う声かけをしてしまうのを見かける。

人ごとでその発言に責任を微塵も感じない。

 

これは学校で、上下下達的にされてきた評価やアドバイス・声かけや指示によるものなのではないかと感じている。

人ごとでありながら自分は安全地帯でその人たちのことを、あーだこーだ言える。

こんな楽で、偉そうな立場はない。

 

本当にその人のことを思えば、言う以外の方法をその人と対等な関係の中で見出すことが大切だろう。

本当にその人のことを思えば、かけられる言葉が限りなく少ないことに気づけるはずだ。

 

その人が行ったことの責任はその人にしか取れない。

その他者の責任の1%に本気で立ち向かうには、

その人との関係性や、技量・時間・立場などを投げ打つ覚悟がいる。

 

そんな気もないのに、のうのうと言葉をかける人を私は信用できない。

 

他人事=冷たい

ではない。

中途半端に他人の責任を負うふりをする方がよほど罪深い。

 

おわり

聞いてもいい・言ってもいい人

なんでも言っていいわけではないけど、

とりあえず聞いてくれる人。

言っても私を怖がらない人は、

その人の意見や思想とその人自体を切り離して話が聞けるからだと思う。

 

その意見や思想とその人自身を同一化してしまうと数少ない言葉と情報からその人を確定しかねない。

確定できない、分類できない、いわゆる"わからない人"は怖がられる。

(人に限らず)

 

なぜだろう。

知らない・わからないことがいけないことだからか。

知らない人・わからない人でいいと思う。

 

興味がない人なんて山ほどいるのに。

 

おわり