gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

時間に重みをつけない

「結果を出したい!」

という思う気持ちはあって良いと思う。

だけど、

「結果を出したいなぁ・・・」

と考えている時間はそんなに必要ないし、

結果への期待はさらに少なくて良い。(目的の確認はいる。)

 

期待を膨らませることで、一時的なエネルギーにはなるかもしれない。

ただ、その結果を得るためには今日やることを決めてやることだ。

やることをきっちりやってその時を迎えれば、

過剰な期待も緊張もしなくてすむように思う。

 

「きっと結果はついてくるさ!」

とか言ったりするけど、

チャレンジをすれば、結果は自然にやってくる。

だったら、その瞬間のことを考えたって仕方ないんだから、

(考えちゃうけど・・・)

今日やれることを、必ず毎日やれるペースでやってみようとすれば良い。

さらに言えば、どんな結果がついてくるか全くわからないことだって、

試し続ける価値があると思う。

なぜなら、続けた人にしか見えない景色があるからだ。

 

その一瞬に重みをつけずに平等な時間の連続の中に身を投じていきたい。

 

 

おわり

自己決定を促すこと

自分(たち)で決めなさい。

と指示することは、

自己決定を促してるのでなくて、

自分たちで決めることを強要していることになる。

自分たちで決めることを、こちらが決めているから。

 

その事柄は君たちで決めるかい?

それとも私が決めた方が良いかい?

と、誰がどう決めるのかを共に考えることが自己決定を促すこと(選択してもよいのだという意識)に繋がる気がしている。

 

また、

私が彼らに決めてほしいこともある。

自分が決めるべきではないという事柄に関しては、

決めさせる。

という選択もあってよいと思う。

最終的にその決定の責任をとるのが明らかに彼らである場合は決めさせた方がいいかなと思う。

責任という言葉を使ったが、この責任が厄介。

責任をとる能力があるのに責任を取らないのはイマイチ。

責任をとる能力がないのに、責任をとるのはなかなかつらい。

責任の存在に気づいていないのなら、転ばぬ先の杖にならず責任をとるところを見守りたい。

 

少しそれました。

この辺のことを一つ一つ考えて、線を引いていないと自分の足で立つことを妨げてしまうような気がしています。

 

おわり

パッケージ化

楽しさ、悲しさ、恐怖 etc…

感動、興奮、夢 etc…

学び、資格、能力、芸術? etc…

色んなことがパッケージになっていて、それに金額が設定されている。

そのパッケージを外側からみて、予想して金額と相談する。

消費者であること(サービスを受けること)に意識が偏ってるような気がする。

 

感じることはいつでも、誰にでもできることだと思う。

誰かから与えられるものではない。

つまらないのはコンテンツじゃなくて、

その中から楽しさを見出せない自分がつまらない。

 

これをやったらどれくらい楽しいか?

ってのをやる前に予想する。

これを学んだらどんな意味がある?どんな得がある?

ってのを学ぶ前に予想する。

(こう考えるのが悪いわけじゃなく、バランスが偏ってるかも?という話。)

 

これは学校の中にもあって、

「我慢して座って授業でてんだから、楽しませてほしい。意味のあることを教えてほしい。」

って感じだ。

(そりゃそうだ。自分も生徒側の時には思ってた。今も強制された場合はこう思うことがある。)

学校(現職場)での学びのシステムが、この考えに至りやすいものになっているから仕方がない気もする。

これは教員である私が授業などをする時に困っているわけでも、学習者が悪いとも思っていない。

学んでは欲しい。

だけど、外的な動機付けや刺激がないと学ばないとなると彼らのためにならない気もする。

 

当事者意識がもてるような、システムや関わりを今後も続ける。

 

おわり

 

追記メモ

子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している。

下流志向 著:内田樹 p.45

 

追記メモ2

サービスを受けよう、受けよう

とするのには限界があるような気がして、提供する、用意する側に回ることが生活の一部(義務的に行う以外のところで)でもいいからあればいいなって思ってる。

2018.9.5 三平二満

小6-16

ミス1

5:37

 

週に2、3日やらない日がある。

生活リズムは少し変わった。

しかし、それ以上にやらなくなることはない。

これ以上に頑張ってやることもない。

そんな位置にいる気がする。

 

5月は毎日欠かさず続いた。

というより

「続かせてみた。」

という感じだ。

もう・・・どうにもならない。

というようなスケジュールで動かなかったのもある。

 

らくだは「私の時間」にやるものだ。

しかし、「私たちの時間」にはできない。

「私たちの時間」の合間を見つけることも大切である。

 

誰と居ようと、どこに居ようと、何をしていようと

時間に大きさも小ささもない。

良い時間、悪い時間もない。

時間は平等にある。

 

おわり

今日の対話 part6

夏休みが明けて一週間は、面談の時間がとられています。

例のごとく、今回も個人面談とサークル対話のどちらが良いかを希望をとりました。

水曜から金曜まではサークル対話をすることになりました。

 

ルールは、

1  何を言ってもいい

2 否定しない茶化さない

3 聞いているだけでもいい

4 問いかけるよう心がける

5 知識ではなく、経験に即して話す

6 話がまとまらず、意見が変わってもいい

7 わからなくなってもいい

 

[今日のテーマ一覧]

・夏休みに楽しかったこと

・夏休みっているかな?

・僕たちはなぜ元気なんだろう?

・父親と母親のどちらが好きですか?

・学校は楽しいか?

 

4つ目の質問はドキッとしましたが、関係性のできているメンバーだったし、

パスもありだから難なく話が進みました。

どちらが好きか問われると困っている人もいれば、

最初は父親だったのに、話すにつれて母親の良いところが見えてきて母親になってしまったり。笑

「親御さんの好きなところは何ですか?」という質問に変えてみればよかったかなと。

記録しながら、自分も話しながら、問いを変化させることに注意することはなかなか難しい。

茶化したらダメっていうルールを自分が楽しくなって破ってしまって反省。笑

集まるメンバーによって、テーマや雰囲気は大きく変わると思った。

なかなか生徒たちだけでこのあたりのテーマを話すことはないと思うので、2学期も時間があればやって行こうと思う。

 

おわり