gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

「孤独が君を強くする」を読んで。

孤独がきみを強くする

岡本太郎さんの

「孤独がきみを強くする」

を読みました。

 

言いたいことを言う。

やりたいようにやる。

これは独りよがりに聞こえるけど、

世界に自分1人しかいない状態を想像してみよう。

自分以外の何物かの存在を認知して初めて「独りよがり」という概念が出てくる。

 

自分は1人しかいない。

だから孤独なんだ。

 

しかし、単独と孤独は違う。

私たちは枠を大きくしていけば、何かの集団に必ず属している。

その中で、自分の意見"だけ"を通すのは単独だ。

自分が絶対に正しいとか、強い想いはあって良い。

それも発言してよい。

自分の中にある正しさは、自分しか信じられないから大切にしてあげよう。

 

でも、純粋で強い意志を示したなら、

それに対して出てくる他者の意志を聞くことがとても大切だ。

ぶつけ合いまくる。

そして、本気でぶつかって初めて、

「はっ」っと気づく。

本気でぶつかるってのは、感情込めて話し合うことではない。

自分と他者の中にある純粋で強い意志を冷静にぶつけ合うことだ。

 

そこで分かり合えなくて全然OK。

ただ、お互いに本気でぶつかった分だけ何かに気づく。

それでよい。

わかり合いたいとか、これは言わないようにしようとか、怒られたらきまずいとか、うまくやろうとか、波風立てないようにとか。

くそくらえって話だ。

 

それでいて、純粋すぎる自分の意思は、孤独になる。

 

でもそこで負けんじゃねーよ。

他の人に負けたんじゃなくて、ぶつけるのが嫌で自分に負けた。

だから、それは自分のせいなんだ。

 

孤独が君を強くする

ってのはそういうことかと読み解きました。

 

おわり

自分に影響力がないと知った時、影響力があることを知る。

誰かの心に刻まれるような言葉を・・・

とか、

誰かをこのように導いてあげたい・・・

とか。

 

自分の言葉で影響を与えたい人には、こんな言葉を。

そうでもない人には、特に意識せずに。

 

と無意識のうちに分けても、

自分の言葉で影響を与えたい人には、まったく伝わらず。

何ならいやらしさがあるとまで思われてしまうかもしれない。

 

特に影響を与えるつもりのない人に、ふと何の気負いもなく出た言葉が、

その人の変化のきっかけになったりするかも知れない。

 

だったら自分が考えていることを素直に、

なおかつその人に伝わりやすく、言葉を選ぶことに集中すると、

純粋さが出てくる気がしている。

 

日本語は難しいもので、ストレートに物事を言いすぎると驚かれることもある。

失礼だと言われることもある。

 

ただ、大切な人ほど”純粋さ”のある言葉で伝えたい。

その場では理解されなくとも、自分に純粋な言葉を使い続ければ、

少しずつ影響が出てきて、肯定も否定もストレスのないものになっていくんじゃないかなーって思う。

おわり

 

20:00

20:00とは、帰り道にある食品スーパーの閉店時間だ。

今日は帰り道にある”月麺”というお店でまぜそばを食べた。

 

20:00を過ぎる=よく頑張った日

という認定をして、外食をする。

外食をすると、食品スーパーで買い物をするより高くつく。

帰りは遅くなるし、食費は高くついてしまったと少し残念な気持ちになることが多かった。

 

ラーメンの原価を考えてみると、どう考えても自分で作った方が良い。

外食をする理由は、いつも食べられないもの、家では出せない味を感じるためでもある。

こうなると、

原価+味=値段

なのかなって思う。

しかし、今日ふと思ったことは、

ラーメンを丹精こめて作ってくれている、

店主さんたちの生活を支えることにも繋がっているんだと、ふと気づく。

原価+味+店主さんたちの支え=値段

になる。

 

全ての”モノ”の影には、人がいる。

ラーメン屋の店主さんはその人がそのまま見える。

 

いつも当たり前に使っている”モノ”の影にどんな人が関わってみるのも、一つ大切なことなんじゃないかと思いました。

おわり

怒り

人は怒る。

蓋をして怒らなければ、喜哀楽も減る。

怒りを持って他者を支配することは良くない。

だから、大いに怒ろうと思う。

「私は怒っている。」

それだけだ。

「私を怒らせたお前は悪いやつだ。」

というのは傲慢かなと。

踏み込む・踏み込まれる勇気

仕事・交友・愛

色んな場面で人と接する。

「ん?それは違うぞ?」

って思っても仕事なら、それを指摘しなくても過ぎて行く。

友ならば言わねばらないことも出てくる。

そして、さらに相手の課題に踏み入ってでも言わなければならない時がある。

 

2人という関係となると比較対象がいない。

何が普通なのかもわからない。普通なんてない。わかってる。でも、

2人の普通がぶつかり合う。

互いが、巷や世間の普通なんてのは存在せず、お互いの普通を2人の当たり前にして行く必要がある。

 

この作業はこわい。

嫌われるかもしれないから。

言われるのも苦しい。

でも、そこで面と向かって対話をすることで、ちょうどいいところをお互いで見つけることで喜びを得られる。

 

それが出来るか、出来ないか。

ただそれだけ。

どちらに正しいとか。

正しくないとかない。

 

ただ、向き合うかどうか。

それだけ。

おわり。