gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

予餞会(3年生を送る会)

3年生は、あと数日学校に来ると、自由登校となり、あとは卒業式です。

今日は金山駅近くの、日本特殊陶業市民会館にて午前中に予餞会がありました。

3年生を送り出しました。

3年生は就職という大きな目的を達したので、良い意味で先生たちに気を使わなくなります。(念を押します。本当に良い意味で。)

私は、子どもたちが私たちを、(教科書の内容を教える存在としては)必要でないと思ってくれる(教員によりけり)ことは少し寂しい反面、”自立”を最終目的としているならば、教育としては成功なのではないかとも思います。

ここで憤慨する先生もいれば、そんなもんでしょって思っている先生もいます。

今日は帰り際に、

「ラーメンのおいしい店ないですか。」

とか、

「飯行きましょう!!先生のおごりで!」

とか、

「ガムの当たりあげるわー」

とか、

声をかけてもらえて嬉しかったです。(私は声をかけて欲しそうな顔をしている。)

この時期に子どもたちから、どんな対応、態度をとられるかは、自分がどんな関わり合いをしてきたかだと感じました。

所詮、ラーメン止まり・・・かも知れませんが。笑

 

私は、この時期だからこそ、彼らに伝えたいことがあります。

卒業するまでの時間で、伝えまくろうと思います。

受け入れるという生き方

www.youtube.com

名南工業高校の3年生は、テストも終わり、成績も付け終わりました。

そして、それぞれの教科で最後の授業を迎えます。

今の3年生は、私が初任者のときに、2年生で副担任をもった学年であることもあり、関わる時間が長かった学年です。

私は、去年から今年にかけてたくさんの失敗をしてきました。

失敗の大切さ、失敗の本質を実践(授業)の中で共に学び合ってきたと思っています。

 

そんな3年生の、最後の授業でこの動画を一緒に見ました。

3-4,3-5,3-6を授業を持っていますが、3-4の特定の子どもたちはとにかく私の話を聞いてくれません。笑(全然問題ない。笑)

私の話がつまらないから仕方がないとは思っています。

伝達事項は、その子どもたちも、聞かなければいけない情報なので、聞きます。

しかし、私が何かを表現するとなると話は別です。笑

すっっっごく聞いてくれる子たちもいるので何とか話したくて、いつも笑いながら「ちょっと聞いてくれよ~笑」と頼み込んでいます。笑

 

今回は、動画を見るということだったので、さすがに聞いてくれるかと思いきや。笑

そんなに大きな声で話します?っていう声で話すんです。笑

確かに、

自分たちで選択するんだよ。

とは言っていますが・・・笑

2年間のたまものだと思いました。(意外と気付き)

 

動画のテーマが「受け入れるという生き方」なのに、授業開始5分で、話しまくる子どもたちを少しながら、受け入られませんでした。笑

 

ここで大切なのは、聞きたい人達が、聞けているのか?

という一点だと思います。

大きな声で話している人は、他者の配慮が出来ているか?ということ。

(クラスの関係性を築くのは子どもたちなので、ここへの介入は最小限にと思っています。)

間違えても、いうことを聞かせなければとか、自分の話や、題材が間違っていたからつまらないんだ・・・という思考にならないことです。

(振り返りと改善は必要です。)

40人が全員、見たい!と思う映像なんて、最近で言えば、「君の名は」くらいなもんです。

 

誰かが自分の事を受け入れてくれていないと思っている時ほど、

相手の事を自分が受け入れていないことが多いのだと思います。

知らないことを受け入れることから。

f:id:gt_24_o223:20170206193315j:image

職場の先生と、教員に必要な資質、専門性について話し合いました。

私が書いた付箋はオレンジの文字のものです。

 

価値観の違いについて、議論をしたかった。

そして、明日から自分になかった(意識していなかった)ものを1つでも加えて、課題を見つけ、良い部分を、認め合う場にしたかった。

何故か、自分の考えの正当性についての議論にしたがるんだもんなあー笑

 

メタ認知アドラーの考え方についてはとりあえず否定。

それ知らない。本読んでみようかな?

と、私なら言うが、

それ知らない。何それ?こうなの?ああなの?それは難しい!

学ぶ気のない、知らなかった自分に何とか折り合いをつけるために、とりあえず否定すると、その先は何も言えなくなるなーって思いました。

 

でも、学校の先生とやれる関係性が少しずつ出来てきた。

続けていきながら、安心して議論できるばを作っていけたらと思います。

人は学ばずにはいられない。

3年生のテストが終わり、午前中授業です。

1,2年生も、今まで学んできたことの総まとめの時期。

新たな知識を伝えることより、子どもたちが主体的に取り組めるプログラムが多くなってきました。

 

授業時間も減り、余裕が出てきました。

今まで見落としていたことも見える時期で、校内整備なども行っています。

 

平日の時間が増えてきたので自然と、新しいことを知りたい、この人に会いに行こう!というエネルギーが自然と湧いてきています。

 

人は、

成長しよう!

だとか、

チャレンジしてみよう!

って(どんなジャンルでも)思うように出来ているんだと思います。

主体性の尊重と、無関心、諦めは紙一重?

この1年、

① 子どもたちの主体性を伸ばす(主体性に任せる)こと

→任せると伸ばすでも変わる気がする。

② 選択と、それにともなう責任を意識してもらうこと

③ 「出来ない体験」から何を学ぶか。

    「出来ない」を受け入れて、そこをスタートにすること

④ 自分が自分のことをどう思っているか(どう評価しているか)が重要であること。

 

などなど。要するに、

「やるのはあなたたちです。主役はあなたたちです。選択し、どうなるか考えましょう。やってみましょう!」

と伝え続けてきました。

すると、私はどれだけお節介焼きだったかを思い知りました。

「教える」という言葉はあたかも「与えること」のように思えます。

しかし、子どもたちの主体性に目を向けていくと、

その以前に目の前の子どもたちは、それを欲しいのか?

と考えるようになるわけです。

 

現状、目の前の子どもたちは、勉強(学校側が決めた学ぶ内容)に興味を示す子どもは少ないです。(名南工業高校の特徴でもあります。)

 

ここで私は悩みました。

やらせるのか、そのままの彼らを受け入れるのか。

 

私は受け入れてみました。

すると、彼らの良い部分が見えてくる、見えてくる。

頑張っているかどうか。点数がとれているかどうかは、私の物差しでした。

だから受け入れてみて、子どもたちの求めるものを考えてみるという姿勢は大切だと感じました。

 

子どもたちが勉強に興味がないことを私は受け入れました。

でもそれは、捉え方によっては、”諦め”にも似たような気がしています。

 

私は、

主体性の尊重による、子どもたちの関心と本音を受け入れること

私の中での、”諦め”に近い感覚の差を自分の明確に分けることが出来ていません。

 

この線引きは、子どもの数だけあるように思います。

線引きをどこでするのかを、私自身は迷いつつも、1年を通して、ぶれない姿でいることは重要だと考えています。

明日も迷って、そして、書き残す。積み重ねていきます。