その人が自分でやると決めてからが全ての始まり。
勉強をすることは当然じゃない。
誰かと協力することは当然じゃない。
挨拶することは当然じゃない。
誰かから、どれだけ上手に、勉強や協力や挨拶の良さを説明されたって、
その人が決めなきゃ、始まらない。
すると良いとされていることはわかっている。
でもやろうと簡単には決められないことだってある。
なんだか行動にうつらないことだってある。
そのこと自体は嫌いじゃないのに、
すると良いかどうかの選択をさせてもらえないこと、強制されることが嫌なだけ。
それだけで、勉強や協力や挨拶が嫌いになってしまうなんて悲しすぎる。
その人が自分事としてやろうと思ったときに初めて、試行錯誤がはじまる。
出来る・出来ないを自分の中で判断・評価することがはじまる。
その人の中に物差しが生まれる。
やらされていることは、やらないでいい方法の試行錯誤はいくらでも湧いてくる。
言い訳でやらない理由を探す。(ある意味自然)
その人がその人らしく決める権利を奪っておいて、
自分の思う”良いこと”(自分で一度も考え直していない固定化した価値を)を押し付け強制させ、
やらない人間を悪だの、怠惰などとレッテルを貼るのは誰も幸せになれない。
やってみたいと思ったその時が、その人のタイミング。
その人がタイミングが来ているのに気づいていないようなら、提案はしてみてはいいまでも強制はしない。
やると決めるかどうかは、その人に任せる。
求められれば意見を言い、対話する。
そのプロセスにこそ価値がある。
その人がその人らしく決めることの手伝いがその人のためであり、
その人が子どもなら”子どものため”となると思う。
おわり