gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

やると決めてから

その人が自分でやると決めてからが全ての始まり。

勉強をすることは当然じゃない。

誰かと協力することは当然じゃない。

挨拶することは当然じゃない。

 

誰かから、どれだけ上手に、勉強や協力や挨拶の良さを説明されたって、

その人が決めなきゃ、始まらない。

すると良いとされていることはわかっている。

でもやろうと簡単には決められないことだってある。

なんだか行動にうつらないことだってある。

 

そのこと自体は嫌いじゃないのに、

すると良いかどうかの選択をさせてもらえないこと、強制されることが嫌なだけ。

それだけで、勉強や協力や挨拶が嫌いになってしまうなんて悲しすぎる。

 

その人が自分事としてやろうと思ったときに初めて、試行錯誤がはじまる。

出来る・出来ないを自分の中で判断・評価することがはじまる。

その人の中に物差しが生まれる。

 

やらされていることは、やらないでいい方法の試行錯誤はいくらでも湧いてくる。

言い訳でやらない理由を探す。(ある意味自然)

 

その人がその人らしく決める権利を奪っておいて、

自分の思う”良いこと”(自分で一度も考え直していない固定化した価値を)を押し付け強制させ、

やらない人間を悪だの、怠惰などとレッテルを貼るのは誰も幸せになれない。

 

やってみたいと思ったその時が、その人のタイミング。

その人がタイミングが来ているのに気づいていないようなら、提案はしてみてはいいまでも強制はしない。

やると決めるかどうかは、その人に任せる。

求められれば意見を言い、対話する。

そのプロセスにこそ価値がある。

 

その人がその人らしく決めることの手伝いがその人のためであり、

その人が子どもなら”子どものため”となると思う。

 

おわり