・駱駝・獅子・小児
下記に、人間の変化成熟のプロセスについて書かれたものを抜粋しました。
(ニーチェ「ツァラトゥストラ」第一部『三様の変化』 手塚富雄訳 中公文庫)
私は君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。
畏敬を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。
何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷にを積まれることを望む。
(中略)
すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へと急ぐ駱駝のように己の身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。
しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。その時精神は獅子となる。精神は自由を我が物としようとし、自分自身が選んだ砂漠の主たろうとする。
その砂漠でかれはかれを最後に支配したものを呼び出す。
かれはその最後の支配者、かれの神の敵となろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な龍と角逐する。精神がもはや主と認めず、神と呼ぼうとしない巨大な龍とは、何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な龍の名である。
しかし、獅子の精神は言う、「我は欲す」と。
「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有隣動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。
(中略)
わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。
新しい価値を創造することーそれはまだ獅子にもできない。
しかし、新しい創造を目指して自由をわがものにすることーこれは獅子の力でなければできないのだ。
自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには獅子が必要なのだ。
(中略)
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。
小児は無垢である、忘却である、新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始末の運動、「然り」という聖なる発語である。
そうだわたしの兄弟よ。創造という遊戯のためには「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
この文章を読んだ時、私(西尾)は職場での私の在り方と重ねて読みました。
私がこれを初めて読んだ時は、社会人2年目で職場からの影響で駱駝から獅子に変化し、とても怒っていたように記憶しています。笑
(無自覚な)自分の力の無さにも、周りとの不調和にも、納得していませんでした。
この文章で言えば、「汝なすべし」との壮絶な戦いといったところです。
(今振り返ると、「汝なすべし」はある特定の人物などではなく、自分の中にいるようにも思えました。)
駱駝であることも、獅子であることも、必ず通る段階であるとすれば、
駱駝をやってみないと、獅子になるエネルギーは湧いてこない。
獅子でいることで、本当に怒らなければいけない対象が見えてきたりするのかもしれません。
また、小児はゴールではなく、ある課題が見えてこればまた駱駝としてのスタートをきる。
この流れは一方向ではなく循環しているともいえそうです。
次は第6講です。