「哲学」という言葉の際限の無さ、広がりをどう整理するのか。
最近の考え事の一つです。
というのも、
「哲学に通ずる対話の場」
を作りたいと思っています。
「哲学についての対話の場」でもなく、
「哲学を通しての対話の場」でもなく、
「哲学を駆使した対話の場」でもない感じなんです。
何が違うんだよ・・・
という声が聞こえてきそうです。笑
ごもっともです。笑
私がイメージしている
「哲学に通ずる対話の場」
物質的ではない物事や概念の本質を、
対話を通して、
その場にいる人たちが納得・了解・承認(納得も了解も承認も違う)をできる、
一つの新たな”何か”を見つける営みができる場
さらにわからない。笑
最終的に「何か」としか当てはめられないこの”何か”という言葉も探っていきたいと思っています。
とはいえ、こんな言葉をこねくり回す場ではなく、
哲学は、その時代、その社会、その集団、その人、そのモノ、そのコトが抱える問題を解決したり、課題をクリアしていく、違うステップへ進んでいくためにあるものだと思っています。
何かのためになって初めて「哲学」って言葉がカッコよく見えてくる気がしてます。
どんな人だって、自分で考えて、自分の意見を持って良いし、発言していい。
なかなか声に出すことって勇気がいるけど。
勇気を持って話してくれたことには、耳を傾けるといいかも知れない。
新たな思考に入り口に立てるかもしれないし、
もしかしたら、他者の問題の解決の糸口になるかも知れない。
一人だと自分をなかなか受け入れられずにいても、
口に出してみたらあっさりと受け入れられたりするかも知れない。
人と人が、「哲学に通ずる対話の場」でそんな反応が起こったらいいなーと思っている。
まだ全部頭の中の話なんですが・・・笑
そして、話はかなり飛躍しますが、
インタビューゲームに可能性を見出そうとしています。
もしよければ、インタビューゲームしてください。笑
おわり