gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

責任と覚悟

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自分で選んで、進んで、誰かに言われてなくてもやることには、失敗も成功も評価もマルっと受け入れられるだろう。

しかし、周りの影響を受けずに(誰かに何かを言われずに)自分だけで何かアクション・チャレンジを起こすことは多くない(気がしている)。

責任や覚悟という言葉は、自分の中に沸々と湧き出てくる方が健康的だと思っている。

誰かに「責任感を持て!」とか、「覚悟を持ってやりなさい!」なんて言われて持つものではない。

自分が何を大切にするか、どう在りたいか、何を伝え・残したいか。

そんなことが少しでも自分の中にあれば、誰かに言われた・自分で起こした関係なく、責任や覚悟は沸々と湧いてくるのではないかと思う。

 

とはいえ、とらされる責任、持たされる覚悟が多く感じるだろう。所属する集団のシステムにその根源があることも。

しかし、その集団から逃げても、責任や覚悟から逃げることができない。

選択の有無、やりたいやりたくないに関わらず責任は発生するし、何かをやろうと思えば覚悟が必要になる。

 

次回は責任について書いてみる。part2

時間を味わう

これまでで今が一番、時間の流れがゆっくりだ。

 

小学校3年から大学4年まで野球をしていた。

大学生では学費と生活費のため、深夜のアルバイトをしていた。

教員になってからは生徒がやりたいと言うだけ部活に打ち込んだ。

土日に活動を希望する生徒のいない部活を担当している時には、学び場に出かけたり、主催したりした。

 

ここ最近は育児休暇を取得し、復帰後も土日に息子と過ごしたり、弁当用の作り置きをしたり、パートナーの家族に会いに行ったり、趣味をしたりしている。

 

息子の成長・変化はすごい。日々違う。

でもなぜか、

もうこんなに大きくなって!

とは思うけど、

あっという間だったなあ。

とは思わない。

 

これまでは時間が早く過ぎるときには、

楽しい、集中、緊張、興奮などがキーワードで、

遅い時は退屈や受け身がキーワードだったように思う。

 

楽しいけども、時間はゆっくり。

これまでより時間を味わえている気がする。

どんなことにも限りがあるのだから、さっさと過ぎてしまえと思うことも程々に、何事も味わってみるのもアリだと思う。

息子と散歩

土日はパートナーと時間を分けてお互い1人の時間を作っています。
息子が私の抱っこではなかなか眠れないようだったので、息子と散歩がてら近くの図書館に行きました。
抱っこ紐を装着し、外に出て5分ほどで寝てしまいました。

眠たかったようです。笑

散歩に出る前は、寝ない息子に少し困っていたこともあり、投稿した写真の本が目にとまりました。

私は息子と2人きりになるのは土日の短時間だけですが、それでも困り果てることもしばしば。
パートナーはすごいなあと思います。

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学んでも学ばなくても恥ずかしい

授業にて、分からないところがあると私に質問をした生徒がいた。

私の勝手な主観だが、分からないことが恥ずかしいように見えた。

 

私は数学免許を取得を目指し、日々数学に触れ、

学びたいことは、誰かにお願いして教えてもらったり、声をかけて学習会をしたり、読書会をしたりする。

そこで出会う人と対話すれば新たな価値観、視座を得られる。

 

新しいことが自分に入ってくると、これまでの自分の行動や思想が間違いだった気がしてくる。

「あの時、こんなことを言ってしまった、やってしまった。」と、恥ずかしくなる。

でも、学ばなかったらそのまま変化なく恥ずかしく思ったこと信じ、行い続けてしまったかもしれない。

 

そう考えると、どっちにしても恥ずかしいような気もする。笑

恥ずかしがるのは自分の勝手であるとも言える。

離任式とこれから

新任から7年在籍した学校の離任式に出席しました。

新任にしては長く在籍しました。

話そうとしていた内容は、

・最近、数人の卒業生と会ったこと

・新任1,2年の時の苦しさと卒業生が感じてる苦しさが近かったこと

・新任1,2年でやってみたいことをやることで教員、生徒を含めて多くの方に迷惑をかけたこと

・1,2年目の状況を打開すべく、本を読み、学び場を開き、ブログを書き、職場外のいろんな人に出会う機会を増やしたこと

・大きな集団の中で、自らの現状を打開する術は学びにあること

という流れでした。

サクッと話して、学習会に興味をもってくれる生徒や先生がいたらいいなあと思っていたのですが、

壇上に立ち、話し始めると20文字も話す前から涙が込み上げてしまいました。

印象にある出来事が山のように思い出されてしまったからです。不思議な感覚でした。

初めて担任をした生徒たちとの思い出や、(教員や生徒と)ぶつかったり、咎めてくれた先生との思い出でした。

特に私の行動で、たくさんの小言を言われるだろう当時の指導教官や教務主任。育児休業中に担任を代行して頂いた現学科長には頭が上がりません。

(この御三方の素敵なところは「世話をしてやった。」「俺の指導のおかげ。」という態度や感覚を全く持っていないことです。そして、今後も私はこの方々にご恩を返すことは難しいでしょう。師となる人は、私と同じかそれ以上のスピードで学ぶので、追い越せないし、恩も返せないと思うからです。だから恩師となんて言葉があるのかも知れません。)

 

学校というシステムも、上下下達的な学びの在り方も、立場にのる上下関係のあり方も、指導という言葉も、"やらせる"とか、"生徒を使う"とか、"いうことを聞かせる"とか、全部嫌いです。

そんな言葉をふと使ってしまいそうになる自分も嫌いになりそうな時もあります。

感動したから全て良しとする気は全くありませんが、こんなことを考えているが故に溢れてた涙だということにしても許されるでしょうか。

 

一般的に"学校"と一括りには言えないですが、確かに存在する"学校"での上記の価値観に嘆いているだけでなく、

授業に自らが大切だと思う学びの在り方を落とし込み学校の中でも運営できるようにできるようにする。

他人の価値観や学校全体の風潮に流されず目の前の人と関わっていくことはできます。

これらが特別なことでなく、当然であることのように私が在ることが、これから接する人たちの感覚・価値観に変容をもたらせたらと思います。