自分と向き合うことは自分一人ではできない。
自分から見える自分の姿には限りがあるからだ。
自分のありのままと向き合うには、現実と認識を分けられてる人に自分の在り方を問うとよい。
評価をせず、判断しない。損得関係もないような人はまわりにいるだろうか。
自分と向き合うことは自分一人ではできない。
自分から見える自分の姿には限りがあるからだ。
自分のありのままと向き合うには、現実と認識を分けられてる人に自分の在り方を問うとよい。
評価をせず、判断しない。損得関係もないような人はまわりにいるだろうか。
半年前に引っ越しをしまして、また今週末に引っ越しを控えています。
次が7回目の引越しです。
これだけ引越しをするのは免許と車を持たないことと、引越しを手伝ってくれた方々とお陰です。おかげさまで一度も、引越し業者は使っていません。
引越しは荷物が少ない方が楽です。
断捨離なんて言葉もあって、引越しをする度に必要ない物を捨てました。
その度に物を溜めてしまうことを反省しています。
使っていないけど何だか保存しているもの(思い出の品系)が引越しのたびに目の前に現れます。
引越す度に物を捨てられるようになっている気がします。
今回の片付けでは迷ったものも思い切ってゴミ箱に捨てるようにしました。
絶対に必要なもの以外は間髪入れずにゴミ箱に入れて行ったのですが、
どーーーしても捨てられないものはゴミ箱は救出しました。
引越しを重ねて、人は物を溜め込むのも好きで、せっかくため込んだ物を捨てることも好きなんじゃないかなと思いました。
これまでに850ほどの記事を書いた。
今日も書こうとしている。
しかし、なかなか書けない。
何を切り口にすれば良いかと悩んでいる。
なので、ここに悩んでいることを書いている。
これで今日もかけている。
原理的には書けないという事はない。
今日あった事は山ほどあるし、切り口はたくさんある。
自分の中の無自覚の思い込みが書くことを阻害しているのだろう。
今回は、今まで自分に問うてないことを切り口にせねばという思い込みがあったようだ。
だんだん良いものを書かかねばと思っているとこもある。
良いものって何だろう。
自分が読みたいものって何だろう。
私は寺子屋塾中村教室へ通塾し、メイン教材のらくだメソッドを毎日取り組んで、9月で4年になった。
↑この記事にもあるように、
週に一度の通塾の際に、自宅での学習を振り返っての気づき、寺子屋塾でらくだ教材を終えた後の感覚を書いている。
本日のテーマ:自分が決めていることは何か。
やる・やらないは自分の何が決めているのだろう?
アタマかココロかカラダだろうか?環境だろうか?
他者と関わりながら生きていれば、自分の思い通りにいかないことはあるだろう。
しかし、自分のあるべき姿でいるべく、自分がどう動くかを判断しているのは紛れもなく自分だ。
確かでない周りからの影響に目が行きがちで、自分が自分に及ぼせることには目がいかないとすると自分のあるべき姿からは遠のいていくだろう。
自分が決めていることが、なかなかやりきれないことは多い。
寺子屋で行っているらくだメソッドは、このやり切る力が少しずつついてくると思う。
先日、彼女ができた友人と、結婚をして少し経った友人と話す機会があった。
結婚をした友人曰く、
パートナーとの結婚はパートナーとの関わりに留まらず、相手方の家族と関わり始めることでもあると言っていた。
この意見・体験談は彼から聞いたのが初めてではない。特に不思議な話ではないが、体験談や意見の出し方が、「〜しないといけない。」という切り口の話は少し気になることがあった。
(今回の話ではその違和感はなかった。)
違う家族の二人が出会い、時間を共にすれば、価値観が違いに気づくことは当然だろう。
その価値観の違いを対話を通してクリアしていく際に、これまで所属していた家族の価値観があたかも正しいかのように振る舞うと前に進みにくい。
(何でもかんでも対話で解決できるとも思っていないし、そんな余裕がない時だって、無理だと思うことだってある。)
二人の課題は二人でしか扱えない。
前所属の家族が二人の関係に二人から求められず、同意なく介入があれば二人は大変かもしれない。
子は親を選べないが、子が一人で生きられるようになれば家族を選べる。関わりたい人は選べると言っても良い。
親になったことがないので分からないけれど、子は親を選べないのと同じく、親は子がどう生きるかを選べない。
繋がりが強い印象のある家族だけど、関わりは家族による。
無数にある家族の在り方のヒントになりそうな記事だと思いました。