年齢を重ね、体験を重ねると、
「生きる上での大切なこと」が見えることもあるだろう。
この
「大切なこと」
の取り扱い方と距離感について考えたい。
この
「大切なこと」
が、
「私が大切だと思うこと」(認識・幻想)
であれば、今後も変容する余地を残し、誰かに強要することもなさそうだ。
反対に、
「大切であること。」(事実・真理)
であれば、変容せず、強要もありえるだろう。
(常に多くの受け入れる人(受け入れる体をとる人)がいれば、変容せず、強要にもなり得ない。これはこれで怖いことである。)
「私が大切だと思うこと」を正しいかどうかを確かめ切ることは不可能だろうが、
(大切だと思うことの根拠やなぜ大切かを日々確かめようとする姿勢は持てる。)
(私が)大切だと思っているという事実と、
それを誰が正しいと思うかはわからないという事実は存在すると言えそうだ。
自分の「私が大切だと思うこと」を認識として認識しようとする人は、
自分の中にある、そのままの自分を一旦は受け入れやすい人だろう。
まずは自分で考え、自分の考えを大切にしようとしている。
その上で、周りとも接続する。
自分を信じすぎず、周りにも飲み込まれず、自分とも周りとも距離を取れる。
この逆は、
自分の中に湧き出る考えに自分自身が耳をかさず、
ある論理(「大切なこと」)に閉じこもり、自分を守ろうとする。
自分を認識しようとせず、論理で殻を被り、自衛する。
どれだけ大切だと思うことがあったとしても、
それは自分がそう思うという範囲から出ることはできず、
自分と距離を取ることで、他者と距離が取れる。
まずは自分を見つめることから全てが始まる。
写真は、自粛期間中に作ったジグソーパズル。