gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

「あれ?」と思ったときに

私の職場(私の勤める学校)では、学校でのルールと、社会でのルールに違いがある。

学校を卒業すれば今後、一切気にすることがなさそうなルールも存在する。

ブラック校則なる言葉や映画が出てきていることからも、学校と学校外とのルールや文化にギャップがあるのは一般的と言ってよさそうだ。

black-kousoku.org

bla-kou.jp

 

校則だけでなく、学校ごとに細々とした文化があるだろうし、教員ごとに価値観の違いから言うことも違うだろう。

学校ごとに違う校則・文化・指導などを学校では多くの場合、強要されるのではないだろうか。

校則をすべて知り、独自の文化や指導にすべて同意して入学することなどは不可能だろう。

入学して生活してみてわかることがあり、それに同意をしかねるなら行動しよう。

ルールを変更・悪しき文化の改善には生徒主導で動くのが改善の一番の近道だ。

それと同時に、教員は生徒の意識や価値観に関心を向け、同意や確認をとることが大切だと思う。

教員が頭ごなしに”怒り”を利用して生徒の意見などを抑制しなければ、建設的な対話を経て多様な在り方の学校になっていくと思っている。

(その時間はとられていない。)

 

しかし、今の現場ではそれができない・・・

一人の力では・・・

という場合もあるだろう。

現状、どう考えても同意できないルールや、寄り添えない価値観や指導があるけれど、どうも改善できないという場合はどう考えたらよいだろうか。

 

「全てを正しいものとして信じ、何が何でも我慢し、従順でいよう。」

この状態では、自分で考え・判断し・責任を持って行動することを放棄している。

でもこのようにしていた方が楽ではある。

だからこそ、この状態は問題として表出しにくい。

「どんなルール、文化、価値観にも意味がない。俺は俺でやりますから・・・。」

という状態では、「やってみて初めてわかることだってある。」ということが抜けている考え方かもしれない。

また、学校では同意もなく体験の場が用意され、知識が流れてくる。

これを全て意味がないと言い切れるのは、とりあえず一度はやってみた人だろう。

全ての事柄を無価値化すれば、その人にとって大事なことを取りこぼすことになる危険性がある。

少なくともとりこぼしていることがあるという自覚をもちたい。

 

同意も確認もなく、一方的なルールや価値感や指導に違和感がある状態が続くのは楽じゃない。考えるのが面倒になれば、その変な価値観に反応せず身を任せてしまいたくなるだろう。

それでも、自由でいられる部分もあると思う。

少なくとも”思考”、頭の中は自由だと思っている。

おかしいと思うことが大きく横たわって目の前を覆いつくしても、何がどうおかしくて、自分の違和感を明確にすることはできる。

どうしても、”やらされる”カタチになる場合は、とりあえずはやってみて、体験という貴重なものはもらっておく。その上で自分なりに咀嚼して、考え(仮定)をもっておく。

そういったことを考え、語れる仲間がいるなら、愚痴を3分に抑えてあとは、どうしたら改善できるかを話すといいかもしれない。

学校で体験したことが無駄かどうか、必要かどうか。

今後の人生の中で、確認していけるといいと思う。