私は人に生かされているし、
それと同時に生かしてもいるだろう。
一つの選択をするにしても、無意識に外的な要因から影響を受けている。
このような感覚を強く感じるようになったのは、3年前からほぼ毎日向き合い・取り組んできた算数・数学のプリントの存在だろう。
教材URL
このプリントを毎日やることは自分で決めた。
(しかし、プリント教材やこの教材を取り扱える塾や塾長に出会えたことは自分の力だけではないとも思う。)
寺子屋塾 中村教室Webページ
目的を持たず、プリントに向き合い、自分の心の有り様に目を向けてきた。
このプリント教材を作った人、この教材を通して、様々な自分に出会わせてくれた人、共に学習する仲間などと影響し合いながら今日もプリントを行った。
今まで使っていた「主体的」「能動的」という言葉の意味は大きく変化した。
(というか、ほぼ定義できないことに気づいた。)
プリントをやらない日は0ではないが先月は4日ほどやらなかった。
もし、3年間プリントをやり続けたとしても、自分のことを、主体的かつ能動的に学習している人間だとは思わないだろう。
プリントを続けることは目的じゃない。
目的や意味をもたなくても、プリントが自然にできる。
強い意志も・習慣力やコツも・努力もいらない。
ただ、プリントと向き合い一枚のプリントをやること。
今の学びに対する感覚を言葉にしてみました。
「自然に学びと寄り添っていて、学んでいるという意識すらないままに、自らの課題をほどいく方へ向かっている。」
おわり