gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

1月の課題本 「ニッポンには対話がない」part2


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3章 ともに生きる力

社交性の再評

-平田-

ぼくはよく、コミュニケーション観が必要だという話のときに、これからの社会のキーフレーズは「《協調性から社交性へ》です。」っていうんだけど、社交性というのは「人間同士が分かり合えない、分かり合えない人間同士なんだけれども、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げてなんとかうまくやっていけばいいじゃないか」という考え方を基本とするものだと思っています。

でも、「社交性」という概念は、これまで日本社会では「うわべだけの付き合い」とか、「表面上の交際」といわれてマイナスのイメージだったですね。大人の社会でも学校教育の中でも、「心からわかり合おうとするものでなければほんとうのコミュニケーションとはいえない」「心から分かり合える人間関係を作りなさい」と教え育てられている。それが実は、子どもたち、若い世代の人たちに相当なプレッシャーを与えているのではないか。

中略

-北川-

日々の外交業務では、わかるという前提では話さない。ぼくらがフィンランドの大使館に赴任した当時に先輩や上司によく言われたことというのが、「わかり合おうなんて思っちゃいけない」ということです。これはベテランの外交官ほどいうんですけど、極端な人になってくると、「人間であるということ以外に共通点がないと思うくらいのつもりでしゃべらないといけない」と。ただ、これは二つの意味であって、そのくらい共通点がないんだと思ってしゃべらなくてはいけないのと、もう一つは同じ人間だから本当に最終局面になればわかる部分もありうるという点です。

 太字の部分は自分にも当てはまることが多かったように思う。

何かを子どもたちと成す時、関係性はとても重要になる。

しかし、「何かを成すために関係性を作る」のは少し違うように思う。

日々の生活ので、自然とできてくるものだと思うからだ。

しかし、その関係性を構築するには、一見、不必要に思える時間に自分の時間を使う覚悟がいる。

友達との関係性を構築するのであれば、何気ない日常が大切なように、

教員と生徒だって何気ない日常が重要だと思っている。

ただ、その何気ない日常の時間を生み出すのは至難である。

お互いに

「この人となら、時間を共有していいな!」

と心の底から思えないといけない。

「〇〇してあげないと・・・」

とか、

「〇〇しないといけない・・・」

が頭によぎっている時点で、何気ない日常ではなくなるからだ。

 

そしてこれらは、

「心から分かり合える人間関係」=「良い関係」

という思い込みによるものだったように思う。

人と人で本音で関わり合うことも、

教員と生徒として”社交的”に関わり合うことも、

どちらも必要な関係なのだと。

その時、自分に自然にできることをやればいいのだろう。

 

おわり