先日の記事は、本の中の言葉や、梶谷さん、尾崎さんの言葉をお借りしながら、これまでやこれからのことについて書きました。
今回は、実際に哲学対話の場を作る時のことを考えます。
・ファシリテーターのタイプ
場の流れに任せる人、問いのカタチで介入する人、聴きつつも自分の意見を発する人・・・(あまり出てこなかった。)
人によって皆違うだろうと思います。
自分としては、どんな状態の対話が”哲学的”なのか。
これだ!というものはありません。
(今までやった中で、「おおお!」と思うことはありました。笑)
今回の対話の中で共通されたこととして、
「誰かのどんな言葉が、誰にどんな衝撃を与えるかわからない。」
ということです。
これが根本にあれば、支配的で一方的な進行をしてしまうことは少なくなるのではないでしょうか。
・参加者にも心構えがあることを前提に(運営側のNOT過剰サービス)
これまで第8回までの教師塾を開催してきた中で、これは参加者の方にお任せしても大丈夫!
ということも神経を使い過ぎなくらい準備をしてきたように思えます。
というのも、こちらの善意で全くの負担なく、主催者・参加者にとって有益なことはすればいいのですが、
主催者が、参加者全ての要望に応える必要はないように感じます。
そこに集まる人間が当事者意識を持ち、場を作ることに集中すれば、参加者も運営する側もないように感じます。
・お子さん大歓迎
託児をつけるということは、子どもが邪魔だとしてしまうことと同じです。
プログラム的にお子さんが入れないものもあるでしょう。
哲学対話の場合は、お子さんが泣いたところで、少しうるさいだけです。
聞こえなければ聞き直せばいい。
子どもにだって対話をする権利がありますから、大人と混じってやったっていい。
・どうでもいいことにどうでもいいと言えること
ファシリテーターは全体を俯瞰してみる立場であるので、いろいろなところに気がつくこともあるでしょう。
しかし、参加者が少し工夫すれば改善されることを、ファシリテーター(運営側)が気にして、対応してしまっては、本末転倒です。
気にしなくていい良いことには、反応しないことも大切です。
感想
哲学対話は、場所や環境・参加者・ファシリテーターによって出来が変わってくるそうです。
哲学対話の場づくりには正解がない。哲学対話ってこれが正しいカタチなのだろうか?
と追いかけるよりも、自分たちなりの哲学対話のカタチを模索していきたい。
おわり