学ぶことについては過去の記事を。
そして勉強について。
勉強は言葉を分解し並べれば、「勉めを強いる」という側面を持っているように思う。
学校(学校にもよるけど・・・)は、
いつ、どこで、誰から、誰と、何を、どんなふう学ぶかを(システム的に)選べずに学ぶ場というイメージがある。(各教員の裁量で柔軟に対応可)
この二つの違いには、
自己決定による自由と、その自由に対する責任のバランスに違いがあると思っている。
(「自己決定すれば自由で、自由は良い。」ではない。
あるの枠組みの中で、学びの主体者が選ぶべきことを自己決定する自由があれば、その人しか取れない責任を、その人が自覚することができる。)
学校では、自由(自己選択)が少なく、学びの主体者に責任(当事者意識)が発生しにくい。(肩代わりしている人がいる。)
生徒とは上記の勉強と学びの違いを意識しながら、
生徒が勉強をどう位置付けているのかを共に考える。(質問をしていく。)
勉強 ≒ [椅子に座り、視覚と聴覚ベースで流れてくる情報を受け取り、テストのために記憶して書き写す。]
であるならば、それは学びとは少し違ったものだと考えているから、
学ぶことと、勉強することの違いを話し合い、かつどうしたら勉強と学びが近いものになっていくのかを考えるようにしている。
(学ぶことと学校の勉強を近いものにするのも限界がある。生徒によっては分けて考えた方が学ぶことを嫌いにならなくて済むと言っている子もいる。)
では、勉強は役に立たないのか?悪いモノなのか?
というと、そうとも思わない。
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