今年度一年間、発達障害と診断されている子がクラスにいました。
私は自分なりに学び、本人も自覚していて前向き、親御さんも協力的です。
この三者の三角形は大切だと感じました。
その子との日記をつけて、授業中の睡眠対策や忘れ物対策をしました。
学校という社会へ順応するトレーニングと言えばよいでしょうか。
三者面談で高校にきて初めて学校が楽しい。
と言ってくれました。
とても嬉しかったです。
私は1年間で「発達障害」という言葉の存在について考えました。
まず、学校で生活するために必要なことと、学校以外で生活するために必要なことに大きな差があります。
社会と学校に子どもを守るためなどという理由のために、学校には絶対化された価値観があると感じています。
それらの価値観を守れないと、浮いてきてしまったり、学校にいられなかったり、、、
学校的のあたりまえに当てはまらない人、
語弊を恐れずに言えば、学校的に会社的に生産的でない人に「発達障害」という言葉がついてしまっているのではないかと思うのです。
(私は一人としか向き合っていませんし、学校の中でしか見ていません。そういう視点で読んでいただければと思います。)
できること・できないことは人それぞれです。しかし、それぞれの能力が、ある集団(学校や会社)の当たり前・絶対化された価値を脅かすものになったとき、その人を集団からはじき出すような力の動きを感じます。
「発達障害」をシンプルな違いとして受け入れ、試行錯誤して生きている方もいるでしょう。
それがどんな障害の度合いであろうともです。
どんな度合いでも、柔軟に受け入れ合ったりたり、いろいろな場を渡っていけるようになればいいなと感じました。