大きな勘違いからこの本を読みはじめた。
昨今の”先生”の扱われ方に問題点を指摘し、”先生”を褒めてくれちゃう本なのではないか。笑
という邪推からこの本を読みましたが、何度も何度も良い意味で裏切られるような本でした。
スッキリとモヤモヤが同時に襲ってくるような内容をいくつか引用してみます。
もしあなたが「人生の師」 と出会った後もまだ「先生と出会ったのは、まったくの偶然であった」と思っていたとしたら、残念ながら、あなたが出会ったのは先生ではありません。
ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生との間には巨大な「クレヴァス」があります。
私にはどうしても理解できないもの、つまり私の知が及ばないもの、私にとっての「無ー知」(non-savoir)の核のようなものが、先生の中にはある。そういう印象を与える先生のことです。
「先生の中には、私には決して到達できない境地がある。」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震えるような敬意を感じます。
こちらの引用を読んで気になった人は、読んでみるといいかもしれない。
この先は読み終わっての感想と気づいたことを少し長めに書いていく。
先生はどんな人でもなりえる(学びの主体者次第)けど、定量的で、内容がパッケージ化されたものを流し込むように教えるのは先生じゃなくて良いのかもしれません。
先生自身が想定していないことを学びの開かれた学習者は学んでいく。
究極的な学習者は、教壇にカカシが立っていても学ぶことができる。
それはリアルな話ではないので、もう少し。
先生の発信すること、
発信されてしまっていることを、
学習者は受信したり、してしまったりする。
学習者は簡単に100パーセント理解したと思わない方がいいし、(大切にはしていい。)
学習者に理解して欲しいからといって、
先生は、
あなたはここまでわかっていれば、わかっているよ。
と伝えてしまうことは、
学びの無限性と、学習者の主体性に壁を作ってしまうことにつながるかもしれない。
ということは、
先生はすべてをわかっていてはつまらない。
先生も謎(世界)を追い求めている途中であり、
学習者も謎(世界)を追い求める。
学習者が”分かった”と思ったことは学習者特有のものであり、(大切にしよう。×2)
先生の発信したこととイコールでなくて良い。
先生は、発信したことはそのまま受信されることがないということをよくよく理解した上で、
発信されてしまったことと、受信されてしまったことを大切にする。(ビビるけど。)
先生は、先生でいようとするよりも、
学習者に先生にしてもらえばいい。
でもそれには、謎を追いかける姿勢は常に必要だし、
その姿勢は先生の主体性でもある。
この謎を共に追いかけることが、共育といっていいのかもしれない。
おわり