gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

彼にとっての”教育”

彼を簡単に紹介します。

(こちらには書ききれませんが・・・)

 

彼は自分の考えを発言することが出来ます。

今までは、自分の考えだけで行動してしまうことがありました。(自己責任なのでわたし的には問題ありませんが。)

今は話し合いをし、どうしていくかを私たちと共に考えることが出来ます。

学校のルールを本質的に捉えようとする姿勢があります。

なので、ギリギリをせめてきますし、これは合理的だ!と気づき、

かつ私に言ったら困るであろうという内容に関しては私たちに許可を求めてきます。笑

私はそれを良い意見だとは言いますが、許可はしません。(ジャッジすらしたくない。)

「君の責任でやってみなさい。」と言います。

そうすると、私をペーペー扱い(事実。笑)して笑って去って行きます。笑

そうしてあげたいのは山々なんだけど・・・という意見がたくさんありました。

 

正しい意見だけど、言葉がきつかったりします。(私と似ている・・・)

私に対する意見の表現がきつすぎることが多々ありました。

そういう時はちゃんと無視してきました。笑

最近は、口に出す言葉に変化がみられてきました。

優しさがにじみ出るようになってきました。

 

この文章は私がお願いをしました。

彼が3年生最後の授業で、「教育とは?」というテーマで書いてくれたものです。

許可を頂いたので、そのままの文章を掲載します。

 

教育とは。

私が思う教育とは教えてもらう側の長所を伸ばし短所をできるだけ克服させることが大人が子供にする教育だと思います。

しかし、今までの私の経験から言って教える側の感性を教えてもらう側に無理やり押し付けているように感じます。

もちろん、協調性なども大切だとは思うのですが、私はやはり個人の意思をはっきりと示すという行為がとても大切だと思います。

あまりにも今の学校などの教育機関は 協調性 にこだわりすぎているのではないか。と私は思います。

このままいけば多くの子供は自分の意思を示せなくなります。

このことを回避するにはまず 自分の意思を示している人を頭ごなしに批判しない という風にし、しっかりとその意思の真意を考え間違っていれば分かるまで優しく説得する必要があると思います。

なぜ 優しく なのかというと、意思を示している本人は、ほとんどの場合自分の意思に自信をもって示しています。

それを みんなはこうしているから君もこうしなさい みたいなことを言われるだけでは納得できないと思います。

しかも学校では将来良い大人になれるようにこうしろなど言われていると思います。

しかし私は上の人間の支持をおりこうさんに聞いているのが果たして本当に良い大人なのか疑問です。

私はそれよりも自分の意思を示し自分で考えて行動したほうがよほど良い人間ではないのかと思います。

今、大人数の人の上に立つ人間、私たちから見たらうらやましいと思えるような人は絶対に人より考えて自分の意思をしっかり示してきたからだと思います。

なので私は教育の根本的な解釈が違うのではないのか。と思います。

私はまだ教える立場になったことがあまりないのではっきりとは言えませんが教えてもらう立場としてはこのように思っています。

 

どう感じるでしょうか。

これは900人いる生徒の1意見ですから、この文章=学校のイメージとは違います。

 

毎日、素敵なことが起ります。

私自身はとても楽しいですし、子どもたちとの関わり中に幸せを感じます。

 

ただ、この彼とは、今まではなかなか分かり合えなかった。

1年、関わるなかで少しずつですが、話すことが出来るようになってきました。

また、似たもの同士だったことに気づいてきました。笑

 

私が感じてきた、そして慣れてきている不自由を彼は感じていたのでしょう。

この文章を書いてもらえるような関係作りができて良かったです。

 

この先も不自由があるでしょう。

その中で彼だけの自由を手に入れてほしいです。

彼と共に、成長できたと思います。

 

おわり