http://www.webchikuma.jp/articles/-/143
“信念には気をつけろ”
この連載で、僕は、哲学は物事の“本質”を洞察する思考の方法だと繰り返し言ってきた。
これを、哲学では「本質観取」と呼ぶことがある。恋の本質とは何か? 教育の本質とは何か? 「よい」社会の本質とは何か? そうしたことがらの“本質”を、上手に観取する、つまりつかみ取ること。だれもができるだけ、「な〜るほど、それはたしかに本質的だ」とうなってしまうような言葉をつむぐこと。それが本質観取だ。
その具体的な方法については、今後の連載でじっくりお話しすることにしたいと思う。
今回おさえておいていただきたいのは、この本質観取をやるにあたっても、「一般化のワナ」に陥らないよう、十分気をつける必要があるということだ。
たとえば、何人かで「教育」の本質観取をしたとしてみよう。
とりわけ教育は、だれもが受けた経験があるから、多くの人が自分の信念を強固に持ってしまいやすいテーマだ。
激しい学力競争に打ち勝ってきた人なら、教育とは競争を通した序列化である、などと言うかもしれない。あるいは、学校にひどくイヤな思いをさせられてきた人なら、教育とは子どもを権力に従順な人間にするための監獄である、などと主張するかもしれない。
もちろん、そうした考えを個人の意見として主張するのはかまわない。でも僕たちは、本質観取をやるにあたっては、それが「一般化のワナ」に陥った意見になってはいないか、たえず振り返る必要がある。そうじゃないと、お互いにお互いの経験や信念をただ表明し合うだけになって、物事の本質を洞察するなんてできないだろう。
強い“信念”にこだわればこだわるほど、僕たちの本質観取の目は多くの場合曇らされてしまう。本質観取をする時、僕たちは特に、そんな自分の“信念”に自覚的でなければならないのだ。
私(たち)が考えている“子どものため”というのは、本当は誰のためなのか。
これは常に問い続けてなければならないし、問い続けることに楽しみを見出したい。
“子どものため”の根本には自分がどのような幼少期をすごしたかにヒントがあると感じている。
自分がどんな教育を受けてきて、その教育がどんなものだと結論付けているのか。
事実レベルのこともあれば、印象レベルのこともあるだろう。
過去からの“体験”の積み重ねが今の自分を少なからず構成していて、過去の出来事や教育が自分にどんな影響をあたえているのかを自覚的になることで、“子どものため”が“自分のため”にすり替わることを防いでくれるかもしれない。
私の場合、大学4年まで(22歳まで)、教育を受ける側だった。
22歳までの体験だけをもとに、
目の前の子どもたちに過去の自分によいと思われるものを展開すれば、
それは“子どものため”が“自分のために”すり替わるという状態であると考えている。
信念は常に更新するものであり、更新できてしまった信念は、こだわりかもしれない。
更新し続けて、手元に何が残るのか。
おわり