gt-24o’s blog

わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

はじめての哲学思考③ 記事:苫野一徳さん

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タレスアナクシマンドロスアナクシメネスといった古代ギリシアの哲学者たちは、一般に「自然哲学者」と呼ばれている。文字通り、自然はいったいどういうメカニズムで動いているのか、その原理を、“神話”ではなく観察を通した“思考”によって明らかにしようとした人たちだ。

哲学(philosophy)の語源は、philia(愛)とsophia(知)。古代においては、知を愛し探究することは、なんでも哲学とされていた。だから人びとは、今なら「自然科学者」と呼ばれる人たちもまた、「自然哲学者」と呼んでいたのだ。

現在、情報は溢れかえり、確かな情報をえることにも時間がかかる。

想像するに、相当な不確かな環境の中で生きていた人たちのなかで、観察を通して、何とか考えてぬいて、原理をみつようとした人たちもまた哲学者と呼ばれていた。

いつの時代も頭が火が出るくらい考える人がいて、その人たちは周りに話が合う人が少なかったんじゃないかと想像します。笑

学び考えていく過程では、自分なりに真理に近づいていくために仮定をたてまくる。

わけのわからないことも何度も考える必要がある。思考の枠をとっぱらうために。

思考や言葉には無限の自由がある。

この自由を楽しみつつ、より多くの人のため、身近な人のためになるように”思考”を仕上げていくことが大切だと思っている。

 

いわゆる事実は、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、決して事実として認識されることがないからだ。
 たとえば、天体法則という事実が存在するのは、僕たちがこの法則に意味を見出しているからだ。
 太古の昔から、人類は農耕を行うためにそのメカニズムを知る必要があった。あるいはそのに魅せられて、天体を観察しつづけてきた。
 同じように、人体のメカニズムを僕たちが知っているのは、それが僕たちにとって意味あるものであるからだ。健康や長寿に意味を見出しているからこそ、人類はその謎に挑みつづけてきたのだ。
 もしも僕たちが、こうした意味のアンテナをもっていなかったなら、天体法則や人体メカニズムといった事実は、僕たちにとって存在することさえなかっただろう。

ここで思いついたのは雑草です。

急に雑草の話をしてすみません。笑

雑草と雑草防除

雑草とは、

● 人間にとって不利益になる植物
水田や畑の雑草を放っておくと作物が健全に育たず、収穫量が減ったり、品質が悪くなったりします。また、雑草は害虫の住みかとなったり、人間の活動のじゃまになったり、景観を悪くしたりします。こういった人間の活動に不利益を生じる植物を総称して雑草と呼ぶという考え方です。 

● 人間の活動によって絶えず攪乱される土地に生えてくる植物
人の活動する場所では絶えず土の表面が動かされています。例えば作物を栽培するために土を耕したり、道路や建物を造るために土の表面を削ったりします。そうすると、人手の入らない高山や原生林の中、原野などに生育する植物とは異なった種類の植物が生えてきます。こういったものを総称して雑草と呼ぶという考え方です。 

いずれにしても、雑草は、栽培している訳ではないのに、人間の周囲に勝手に生えてきて、時として人間に嫌がられながらも、人間のそばに好んで生活する植物だと言えるでしょう。 

まさに、私たち人の意味付けによって定義されているものの代表かなと。

当たり前ですが、チューリップは雑草ではないわけです。

しかし、チューリップに稲を枯らす毒があったとしたら、「チューリップは綺麗だなー」と持てはやされることはなかったでしょう。笑

田んぼの近くに咲きまくった時には、「イネカラシ」とかいう名前で雑草の仲間入りをさせられていたかも知れません。笑

私たちの生活や、視野に入ってくるものには興味が湧き、私たちにとってどんな影響を及ぼすのかを知るたくなる。

ただ、まったく人の目にとまらないものには、人は意味付けをしない。

だから、科学的にも定義する必要もない。

記事の中に出てくる、「意味の世界」が先で、「事実の世界」が後であるというのはこういうことだと思う。

 

おわり