gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

名言改め、言葉シリーズ②

「誰でも怒ることはできる、それは簡単なことだ。しかし、

正しい人に、正しい程度に、正しい時に、正しい目的、正しい方法で怒ること、それは簡単ではない」

アリストテレス

 

教諭2年目の生徒指導部にて子どもと接するときに意識していたことです。

誰かに怒る時とは、

誰かに迷惑をかけたとき、人間的な「正しさ」から逸脱したときだと考えます。

 

言葉を一つひとう紐解くと、

 

”正しい人”とは?

諸問題があった時に、誰が誰にどんな影響を及ぼし、人としての「正しさ」を誰が一時的に逸脱してしまったかを見極めることだと考えます。

人間関係も見極めなえればいけません。

 

”正しい程度”とは?

正しい人の文章に加えて、

人としての「正しさ」をだれがどんな風に、どれだけ一時的に逸脱したかが大切になると考えています。

それに加えて、怒らなければならない対象の人がどんな人かをよく見極めた上で怒らねばいけません。

その人が「正しさ」から逸脱したとしても、私たちが怒るということは一時的なものなはずです。

私たちが”自分の目的”のために人を怒ることは決してあってはならないと考えます。

 

”正しいとき"とは?

例えば、1人を三人で囲んで暴力を働いていたとします。

その時は、その瞬間です。

少し大きな声を出してでも、感情を表に出してでもとめなければいけません。

ただ、教員である私が思うに学校内で怒られることの多くは、学校内だからではないかと感じます。

よくよく考えると、感情を持ち出してまで怒る必要ある場合は限られると私は考えています。

 

"正しい方法"とは?

これは千差万別だと考えています。

怒る方の人や、怒られる人によっても変わりますし、

怒る方は相手を見て変えるべきだとも思います。

なぜなら、私なら基本的に怒りたくない。怒らなくて済むのなら。

ただ、怒ることがその時に最善だと判断し、相手のためを考え、怒る。

怒る以外にカードがない時、怒ることになります。

相手のためと自分のためは表裏一体です。

ですから、「相手のために怒る。」などと表現はしたくはありませんが、

本当にこれらのことをよくよく考え、真摯に他者と向き合えば、

正しい方法で怒ることが出来ると考えています。

 

書くのも簡単ではありませんでした。笑

おわり